此時は流石に私も肩の荷を下した樣で、ホッと息をして莨に火を移すが、輕い空腹と何と云ふ事の無い不滿足の情が起つて來るので大抵一本の莨を吸ひきらぬ中に歸準備《かへりじたく》をする。
 宿に歸ると、否でも應でもお芳の滑稽《おどけ》た顏を見ねばならぬ。ト、其何時見ても絶えた事のない卑しい淺間しい飢渇の表情が、直ぐ私に
『オイ、家の別嬪さんは今日誰々に秋波《いろめ》を使つた?』
と云ふ樣の事を云はせる。
『マア酷いよ、此人は。私の顏見れば、そんな事許り云つてさ。』
と、お芳は忽ちにして甘えた姿態《しな》をする。
『飯《めし》持つて來い、飯。』
『貴方、今夜も出懸けるのかえ。』
『大きに御世話樣。』
『だつて主婦《おかみ》さんが貴方《あなた》の事心配してるよ。好《え》え人だども、今から酒など飮んで、怎するだべて。』
『お嫁に來て呉れる人が無くなるッテ譯か?』
『マアさ。』
『ぢやね、芳ちやんの樣な人で、モ些《ちつ》と許りお尻の小さいのを嫁に貰つて呉れたら、一生酒を禁《や》めるからツてお主婦《かみ》さんにそ云つて見て呉れ。』
『知らない、私。』と立つて行く。
 夕飯が濟む。ト、一日手を離さぬので筆が
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