感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ鬚面が初めて現れた時は、菊池は何處か遠い所から來たのぢや無かつたらうかと思はれる。考が直ぐ移る。
 昨晩《ゆうべ》の座敷の樣子が、再《また》鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、餘程の間隔がある。「ウワッハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて來たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて來て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向|效力《きゝめ》が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐《あぐら》をかいた膝頭を、兩手で攫んで、凝然《ぢつ》として居る人だ。……………
 ト、今度は、菊池君の顏を嘗て何處かで見た事がある樣な氣がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵《おほどほり》がパッと目に浮ぶ。中學の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髮床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級《クラス》の友人のお父親《やぢ》の鬚だつたと
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