歩くかも知れない。
「溝の中を歩く人、」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐《す》えた、腐つた、溝の中の汚水の臭氣で那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に變色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた證據だ。激しい勞働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再《また》口の中で云つて見たが、此語は、吾乍ら鋭い錐で胸をもむ樣な連想を起したので、狼狽《うろた》へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。
 何にしても菊池君は失敗を重ねて來た人だ、と、勝手に斷定して、今度は、アノ指が確かに私の二本前太いと思つた。で、小兒みたいに、密と自分の指を蒲團の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の對手を西山社長にした。何と云ふ譯もないが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑《うたがひ》深い目付きとが、怎しても菊池君と調和しない樣な氣がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で惡く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を
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