と寢た事が無いさうです。然うだつたね、市ちやん?』
『おかめ[#「おかめ」に傍点]屋なんて、人を。酷い事旦那は。』
と市子は怖い目をして見せたが、それでも志田君の貸した盃を受取つて、盃洗に淨めて私に獻《さ》した。
『印度の炭山の旦那のお媒介《とりもち》ですから、何卒末長く白ツぱくれない樣に……』
『印度の炭山の旦那は酷い。』と志田君の聲が高かつたので、皆|此方《こつち》を見た。『いくら私は色が黒いたつて、隨分念を入れた形容をしたもんだ。』
 一座の人は聲を合せて笑つた。
 私は初めての事でもあり、且つは、話題を絶やさぬ志田君と隣つて居る故か、自《おのづ》と人の目について、返せども返せども、盃が集つて來る。生來餘り飮《いけ》ぬ口なので、顏は既《もう》ポツポと上氣して、心臟の鼓動が足の裏までも響く。二つや三つなら未だしもの事、私の樣な弱い者には、四つ五つと盃の列んだのを見ると、醒め果てた戀に向ふ樣で、モウ手も觸《つ》けたくない。藝妓には珍しく一滴も飮まぬ市子は、それと覺つてか、密と盃洗を持つて來て、志田君に見られぬ樣に、一つ宛空けて呉れて居たが、いつしか發覺して例の圓轉自在の舌から吹聽に及
前へ 次へ
全56ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング