此時は流石に私も肩の荷を下した樣で、ホッと息をして莨に火を移すが、輕い空腹と何と云ふ事の無い不滿足の情が起つて來るので大抵一本の莨を吸ひきらぬ中に歸準備《かへりじたく》をする。
宿に歸ると、否でも應でもお芳の滑稽《おどけ》た顏を見ねばならぬ。ト、其何時見ても絶えた事のない卑しい淺間しい飢渇の表情が、直ぐ私に
『オイ、家の別嬪さんは今日誰々に秋波《いろめ》を使つた?』
と云ふ樣の事を云はせる。
『マア酷いよ、此人は。私の顏見れば、そんな事許り云つてさ。』
と、お芳は忽ちにして甘えた姿態《しな》をする。
『飯《めし》持つて來い、飯。』
『貴方、今夜も出懸けるのかえ。』
『大きに御世話樣。』
『だつて主婦《おかみ》さんが貴方《あなた》の事心配してるよ。好《え》え人だども、今から酒など飮んで、怎するだべて。』
『お嫁に來て呉れる人が無くなるッテ譯か?』
『マアさ。』
『ぢやね、芳ちやんの樣な人で、モ些《ちつ》と許りお尻の小さいのを嫁に貰つて呉れたら、一生酒を禁《や》めるからツてお主婦《かみ》さんにそ云つて見て呉れ。』
『知らない、私。』と立つて行く。
夕飯が濟む。ト、一日手を離さぬので筆が仇敵《かたき》の樣になつてるから、手紙一本書く氣もしなければ、書《ほん》など見ようとも思はぬ。凝然《ぢつ》として[#「て」は底本では「く」]洋燈《ランプ》の火を見つめて居ると、斷々《きれ/″\》な事が雜然《ごつちや》になつて心を掠める。何時《いつ》しか暗い陰影《かげ》が頭腦《あたま》に擴《はびこ》つて來る。私は、恁《か》うして何處へといふ確かな目的《あて》もなく、外套を引被《ひつか》けて外へ飛び出して了ふ。
這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》氣持がする樣になつてから、私は何故といふ理由もなしに「毎日」の日下部君と親しく往來する樣になつた。ト共に、初め材料を聞出す積りでチョイ/\飮みに行つたのが、此頃では其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》考へも無しに、唯モウ行かねば氣が落付かぬ樣で、毎晩の樣に華やかな絃歌の巷に足を運んだ。或時は小松君を伴れて、或時は日下部君と相携へて。
星明りのする雪路を、身も心もフラ/\として歸つて來るのは、大抵十二時過であるが、私は、「毎日」社の小路の入口を通る度に、「僕の方の編輯局は全然梁山伯だよ。」と云つた日下部君の言葉を思出す。月例會に逢つた限《きり》の菊池君が何故か目に浮ぶ。そして、何だか一度其編集局へ行つて見たい樣な氣がした。
五
三月一日は恰度《ちやうど》日曜日。快く目をさました時は、空が美しく晴れ渡つて、東向の窓に射す日が、塵に曇つた硝子を薄温かに染めて居た。
日射が上から縮《ちゞま》つて、段々下に落ちて行く。颯《さつ》と室の中が暗くなつたと思ふと、モウ私の窓から日が遁げて、向合つた今井病院の窓が、遽かにキラ/\とする。午後一時の時計がチンと何處かで鳴つて、小松君が遊びに來た。
『昨晩《ゆうべ》怎《どう》でした。面白かつたかえ?』
『隨分な入でした。五百人位入つた樣でしたよ。』
『釧路座に五百人ぢや、棧敷が危險《あぶな》いね。』
『ええ、七時頃には木戸を閉めツちやツたんですが、大分|戸外《そと》で騷いでましたよ。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》だつたかな。最も、釧路ぢや琵琶會が初めてなんださうだからね。』
『それに貴方が又、馬鹿に景氣をつけてお書きなすツたんですからな。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事もないけれども……訝《あや》しげなもんだね。一體僕は、慈善琵琶會なんて云ふ「慈善」が大嫌ひなんで、アレは須らく僞善琵琶會と書くべしだと思つてるんだが、それでも君、釧路みたいな田舎へ來てると、怎も退屈で退屈で仕樣がないもんだからね。遂ソノ、何かしら人騷がせがやつて見たくなるんだ。』
『同意《まつたく》ですな。』
『孤兒院設立の資金を集るなんて云ふけれど、實際はアノ金村《かねむら》ツて云ふ琵琶法師も喰《くは》せ者に違ひないんだがね。』
『でせうか?』
『でなけや、君……然《さ》う/\、君は未だ知らなかつたんだが、昨日彼奴がね、編集局へビールを、一|打《ダース》寄越したんだよ。僕は癪に觸つたから、御好意は有難いが此代金も孤兒院の設立資金に入れて貰ひたいツて返してやつたんだ。』
『然《さ》うでしたか、怎も……』
『慈善を餌《えさ》に利を釣る、巧くやつてるもんだよ。アノ旅館《やどや》の贅澤加減を見ても解るさ。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《
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