菊池君
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)恰度《ちやうど》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|酷《きび》しい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「丿+臣+頁」、第4水準2−92−28]を埋めた
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)やう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度《ちやうど》一月下旬の事、寒さの一番|酷《きび》しい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に※[#「丿+臣+頁」、第4水準2−92−28]を埋めた首卷が、呼氣《いき》の濕氣《しめりけ》で眞白に凍つた。翌朝目を覺ました時は、雨戸の隙を潜って空《うそ》寒く障子を染めた曉の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、心《しん》を細めて置いた吊洋燈《つるしランプ》が昨夜《よべ》の儘に薄《うつす》りと點《とも》つて居たが、茶を注いで飮まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に轉げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身體を縮《ちゞ》めて床の中で待つて居たが、寒國の人は總じて朝寢をする、漸々《やう/\》女中の入つて來たのは、ものの一時間半も經《た》つてからで、起きて顏を洗ひに行かうと、何氣なしに取上げた銀|鍍金《めつき》の石鹸函は指に氷着《くつつ》く、廊下の舖板《しきいた》が足を移す毎にキシ/\と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顏を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。
雪は五寸許りしか無かつたが、晴天續きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光《ひざし》が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄《おび》えた樣にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鐵の板を踏む樣な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如く滑《なめら》かで、少し油斷をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相應に見える程、厚い立派な防寒外套を着けて、輕々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狹霧《さぎり》の樣な呼氣《いき》を被《かぶ》つて氷の玉を聨ねた鬣《たてがみ》を、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。
二三日して私は、洲崎町の或下宿へ移つた。去年の春までは、土地で少しは幅を利かしたさる醫師の住つて居た家とかで、室も左程に惡くは無し、年に似合はず血色のよい、布袋の樣に肥滿《ふと》つた、モウ五十近い氣丈の主婦《おかみ》も、外見《みかけ》によらぬ親切者、女中は小さいのを合せて三人居た。私が移った晩の事、身體の馬鹿に大きい、二十四五の、主婦《おかみ》にも劣らず肥滿《ふと》つた小さい眼と小さい鼻を掩ひ隱す程頬骨が突出て居て、額の極めて狹い、氣の毒を通越して滑稽に見える程不恰好な女中が來て、一時間許りも不問語《とはずがたり》をした。夫に死なれてから、一人世帶を持つて居て、釧路は裁縫料《したてちん》の高い所であれば、毎月|若干宛《いくらかづゝ》の貯蓄もして居たのを、此家の主婦《おかみ》が人手が足らぬといふので、強《たつ》ての頼みを拒み難く、手傳に來てからモウ彼是半年になると云つた樣な話で、「普通《たゞ》の女中ぢやない。」といふ事を、私に呑込ませようとしたらしい。後で解つたが、名はお芳と云つて、稼ぐ時は馬鹿に稼ぐ、怠《なまけ》る時は幾何《いくら》主婦《おかみ》に怒鳴られても平氣で怠ける、といふ、隨分|氣紛《きまぐ》れ者であつた。
取分けて此下宿の、私に氣に入つたのは、社に近い事であつた。相應の賑ひを見せて居る眞砂町の大逵《おほどほり》とは、恰度《ちやうど》背中合せになつた埋立地の、兩側|空地《あきち》の多い街路を僅か一町半許りで社に行かれる。
社は、支廳坂から眞砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角《よつかど》に立つて居て、小さいながらも、ツイ此頃落成式を擧げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える樣な新しい煉瓦の色の、廓然《くつきり》と正しい輪廓を描いてるのは、何樣《なにさま》木造の多い此町では、多少の威嚴を保《たも》つて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告見たいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶の美觀を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶《おぼ
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