さわ》つて見る市井の無頼兒である。世が日毎に月毎に進んで、汽車、汽船、電車、自動車、地球の周圍を縮める事許り考へ出すと、徒歩で世界を一週すると言ひ出す奴が屹度出る。――詰り、私の精神も、徒歩旅行が企てたくなつたのだ、喧嘩の對手が欲しくなつたのだ。
一月の下旬に來て、唯一月|經《た》つか經《た》たぬに這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》氣を起すとは、少し氣早《きばや》い――不自然な樣に思ふかも知れぬが、それは私の性行を知らぬからなので……私は、北海道へ來てから許りも、唯九ケ月の間に、函館、小樽、札幌で四つの新聞に居て來た。何《ど》の社でも今の樣に破格の優遇はして呉れなかつたが、其代り私は一日として心の無聊を感じた事が無い。何か知ら企《くわだ》てる、でなければ、人の企てに加はる。其企てが又、今の樣に何の障害《さわり》なしに行はれる事が無いので、私の若い精神は絶間《たえま》もなく勇んで、朝から晩まで戰場に居る心地がして居た。戰ひに慣れた心が、何一つ波風の無い編輯局に來て、徐々《そろ/\》睡氣がさす程「無聊の壓迫」を感じ出したのだ。
這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》理由とも氣が附かず、唯モウ暗い陰影《かげ》に襲はれると、自暴《やけ》に誇大な語を使つて書く、筆が一寸躓くと、くすんだ顏を上げて周圍を見る。周邊は何時でも平和だ、何事も無い。すると、私は穗先を噛んでアラヌ方を眺める。
主筆は鷹揚に淡白《あつさり》と構へて居る。八戸君は毎日役所※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りをして來て、一生懸命になつて五六十行位雜報を書く。優しい髭を蓄へた、色白の、女に可愛がられる顏立で、以前は何處かの中學の教師をした人なさうだが、至極親切な君子人で、得意な代數幾何物理の割に筆は立たぬけれど、遊郭種となると、打つて變つて輕妙な警句に富んだものを書く、私の心に陰影《かげ》のさした時、よく飛沫《とばちり》の叱言《こごと》を食ふのは、編輯助手の永山であつた。永山はモウ三十を越した、何日でも髮をペタリとチックで撫でつけて居て、目が顏の兩端にある、頬骨の出た、ノッペリとした男で、醉つた時踊の眞似をする外に、何も能が無い、奇妙に生れついた男もあればあるもので、此男が眞面目になればなる程、其擧動が吹き出さずに居られぬ程滑稽に見えて、何か戲談でも云ふと些《ちつ》とも可笑しくない。午前は商況の材料取に店※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りをして、一時に警察へ行く。歸つてから校正刷の出初めるまでは、何も用が無いので、東京電報を譯さして見る事などもあるが、全然頭に働きが無い、唯五六通の電報に三十分も費して、それで間違ひだらけな譯をする。
少し毛色の變つてるのは、小松君であつた。二十七八の、髭が無いから年よりはズット若く見えるが、大きい聲一つ出さぬ樣な男で居て、馬鹿に話好《はなしづ》きの、何日《いつ》でも輕い不安に襲はれて居る樣に、顏の肉を痙攣《ひきつ》けらせて居た。
此小松君は又、暇さへあれば町を歩くのか好きだといふ事で、市井の細かい出來事まで、殆んど殘りなく聞込んで來る。私が、彼の「毎日」の菊池君に就いて、種々《いろ/\》の噂を聞いたのも、大抵此小松君からであつた。
其話では、――菊池君は贅澤にも棧橋前の「丸山」と云ふ旅館に泊つて居て、毎日|草鞋《わらぢ》を穿《は》いて外交に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居る。そして、何處へ行つても、
『私は「毎日新聞」の探訪で、菊池兼治と云ふ者であります。』
と挨拶するさうで、初めて警察へ行つた時は、案内もなしにヅカ/\事務室へ入つたので、深野と云ふ主任警部が、テッキリ無頼漢か何か面倒な事を云ひに來たと見たから、『貴樣は誰の許可《ゆるし》を得て入つたか?』
と突然怒鳴りつけたと云ふ事であつた。菊池君は又、時々職工と一緒になつて酒を飮む事があるさうで、「丸山」の番頭の話では、時として歸つて來ない晩もあると云ふ。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》時は怎も米町《よねまち》(遊廓)へ行くらしいので、現に或時《いつか》の晩の如きは職工二人許りと連立つて行つた形跡があると云ふ事であつた。そして又、小松君は、聨隊區司令部には三日置位にしか材料が無いのに、菊池君が毎日アノ山の上まで行くと云つて、笑つて居た。
四時か四時半になると、私は算盤を取つた、順序紙につけてある行數を計算して、
『原稿|出切《できり》。』
と呼ぶ。ト、八戸君も小松君も、卓子《テーブル》から離れて各々《めい/\》自分の椅子を引ずつて煖爐《ストーブ》の周邊《あたり》に集る。
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