常に鷹揚に構へて、部下の者の缺點は隨分手酷くやッつけるけれども、滅多に煽動《おだて》る事のない人であつた。で、私に對しても、極く淡白《きさく》に見せて居たが、何も云はねば云はぬにつけて、私は又此人の頭腦《あたま》がモウ餘程|乾涸《ひからび》て居て、漢文句調の幼稚な文章しか書けぬ事を知つて居るので、それとなく腹の中でフフンと云つて居る。
一體此編輯局には、他の新聞には餘り類のない一種の秩序――官衙風な秩序があつた。それは無論何處の社でも、校正係が主筆を捉へて「オイ君」などと云ふ事は無いものだけれど、それでも普通の社會と違つて、何といふ事なしに自由がある。所が、此編輯局には、主筆が社の柱石であつて動かすべからざる權力を持つて居るのと、其鷹揚な官吏的な態度とが、自然さう云ふ具合にしたものか、怎《どう》かは知らぬが、主筆なら未《ま》だしも、私までが「君」と云はずに「貴方《あなた》」と云はれる。言話のみでなく、凡ての事が然《さ》う云つた調子で、隨つて何日でも議論一つ出る事なく、平和で、無事で、波風の立つ日が無いと共に、部下の者に抑壓はあるけれど、自由の空氣が些《ちつ》とも吹かぬ。
私は無論誰からも抑壓を享けるでもなく、却つて上の人から大事がられて、お愛嬌を云はれて居るので、隨分我儘に許り振舞つて居たが、フフンと云ふ氣持になつて、自分の境遇を輕蔑して見る樣になつて間もなくの事――其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》氣がし乍らも職務《しごと》には眞面目なもので、毎日十一時頃に出て四時過ぎまでに、大抵は三百行位も書きこなすのだから、手を休める暇と云つては殆ど無いのだが、――時として、筆の穂先を前齒で輕く噛みながら、何といふ事なしに苦蟲《にがむし》を噛みつぶした樣な顏をして居る事があつた。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》時は、恰度《ちやうど》、空を行く雲が、明るい頭腦《あたま》の中へサッと暗い影を落した樣で、目の前の人の顏も、原稿紙も、何となしに煤《くす》んで、曇つて見える。ハッと氣が附いて、怎して這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》氣持がしたらうと怪んで見る。それが日一日と數が多くなつて行く、時間も長く續く樣になつて行く。
或日、須藤氏が編輯局に來て居て、
『橘君は今日二日醉ぢやないか。』
と云つた。恰度《ちやうど》私が呆然《ぼんやり》と例の氣持になつて、向側の壁に貼りつけた北海道地圖を眺めて居た時なので、ハッとして、
『否《いいえ》』
と云つた儘、テレ隱しに愛想笑ひをすると、
『さうかえ、何だか氣持の惡さうな顏をして居るから、僕は又、何か市子に怨言《うらみ》でも言はれたのを思出してるかと思つた。』
と云つて笑つたが、
『君が然《さ》うして一生懸命働いてくれるのは可《い》いが。、其爲に神經衰弱でも起さん樣にして呉れ給へ。一體餘り丈夫でない身體《からだ》な樣だから。』
私は直ぐ腹の中でフフンと云ふ氣になつたが、可成《なるべく》平生《ふだん》の快活を裝《よそ》うて、
『大丈夫ですよ。僕は藥を飮むのが大嫌ひですから、滅多に病氣なんかする氣になりません。』
『そんなら可《い》いが、』と句を切つて、『最も、君が病氣したら、看護婦の代りに市子を頼んで上《あげ》る積りだがね、ハハハ。』
『そら結構です、何なら、チョイ/\病氣する事にしても可《い》いですよ。』
其日は一日、可成《なるべく》くすんだ顏を人に見せまいと思つて、頻りに心にもない戲談を云つたが、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事をすればする程、頭腦《あたま》が暗くなつて來て、筆が溢る、無暗矢鱈に二號活字を使ふ。文選小僧は「明日の新聞も景気が可《え》えぞ。」と工場で叫んで居た。
何故暗い陰影《かげ》に襲はれるか? 訝《いぶか》しいとは思ひ乍ら、私は別に深く其理由を考へても見なかつた。が、詰り私は、身體は一時間も暇が無い程忙がしいが、爲る事成す事思ふ壺に篏《はま》つて、鏡の樣に凪《な》いだ海を十日も二十日も航海する樣なので、何日しか精神《こころ》が此無聊に倦《う》んで來たのだ。西風がドウと吹いて、千里の夏草が皆|靡《なび》く、抗《さから》ふ樹もなければ、遮《さへぎ》る山もない、と、風は野の涯に來て自ら死ぬ。自ら死ぬ風の心を、若い人は又、春の眞晝に一人居て、五尺の軒から底無しの花曇りの空を仰いだ時、目に湧いて來る寂しみの雲に讀む。戀ある人は戀を思ひ、友ある人は友を懷ひ、春の愁と云はるる「無聊の壓迫」を享けて、何處かしら遁路を求めむとする。太平の世の春愁は、肩で風切る武士の腰の物に、態《わざ》と觸《
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