分け私自身の聞出して書く材料が、一つとして先方に載つて居ない。のみならず、三面だけにルビを附けただけで、活字の少い所から假名許り澤山に使つて、「釧路」の釧の字が無いから大抵「くし路」としてあつた。新聞を見て了つて、起きようかナと思ふと、先づ床の中から兩腕を出して、思ひ切つて悠暢《ゆつたり》と身延《のび/\》をする。そして、「今日も亦社に行つてと……ええと、また二號活字を盛んに使うかナ。」と云ふ樣な事を口の中で云つて見て、そして今度は前の場合と少し違つた意味に於て、フフンと云つて、輕く自分を嘲つて見る。「二號活字さへ使へば新聞が活動したものと思つてる、フン、處世の秘訣は二號活字にありかナ。」などと考へる。
 這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》氣がし出してから、早いもので、二三日|經《た》つと、モウ私は何を見ても何を聞いても、直ぐフフンと鼻先であしらふ樣な氣持になつた。其頃は私も餘程土地慣れがして來て、且つ仕事が仕事だから、種々《いろ/\》の人に接觸して居たし、隨つて一寸普通の人には知れぬ種々《いろ/\》な事が、目に見えたり、耳に入つたりする所から、「要するに釧路は慾の無い人と眞面目な人の居ない所だ。」と云つた樣な心地が、不斷此フフンといふ氣を助長《たす》[#「長」は底本では「氣」]けて居た。
 モ一つ、それを助長《たす》けるのは、厭でも應でも毎日顏を見では濟まぬ女中のお芳であつた。私が此下宿へ初めて移つた晩、此女が來て、亭主に別れてから自活して居たのを云々と話した事があつたが、此頃になつて、不圖《ふと》した事から、それが全然根も葉も無い事であると解つた。亭主があつたのでも無ければ、主婦《おかみ》が強《た》つて頼んだのでもなく、矢張普通の女中で、額の狹い、小さい目と小さい鼻を隱《かく》して了ふ程頬骨の突出た、土臼の樣な尻の、先づ珍しい許りの醜女《ぶをんな》の肥滿人《ふとつちよ》であつた。人々に向つて、よく亭主があつた樣な話をするのは、詰り、自分が二十五にもなつて未だ獨身で居るのを、人が、不容貌《ぶきりやう》な爲に拾手《ひろひて》が無かつたのだとでも見るかと思つてるからなので、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》女だから、何の室へ行つても、例の取て投げる樣な調子で、四邊《あたり》構はず狎戲《ざれ》る、妙な姿態《しな》をする。止宿人《おきやく》の方でも、根が愚鈍な淡白《きさく》者だけに面白がつて盛んに揶揄《からか》ふ。ト、屹度《きつと》私の許へ來て、何番のお客さんが昨晩《ゆうべ》這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》事を云つたとか、那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》事をしたとか、誰さんが私の乳を握つたとか、夏になつたら浴衣を買つてやるから毎晩泊りに來いと云つたとか、それは/\種々《いろ/\》な事を喋《しやべ》り立てる。私はよく氣の毒な女だと思つてたが、それでも此滑稽な顏を見たが最後、腹の蟲が喉《のど》まで出て來て擽る樣で、罪な事とは知り乍ら、種々《いろ/\》な事を云つて揶揄《からか》ふ。然も、怎したものか、生れてから云つた事のない樣な際敏《きはど》い皮肉までが、何の苦もなく、咽喉から矢繼早に出て來る。すると、芳ちゃんは屹度《きつと》怒つた樣な顏をして見せるが、此時は此女の心の中で一番嬉しい時なので、又、其顏の一番|滑稽《おどけ》て見える時なのだ。が、私は直ぐ揶揄《からか》ふのが厭になつて了ふので、其度《そのたび》、
『モウ行け、行け。何時まで人の邪魔するんだい、馬鹿奴。』
と怒鳴りつける。ト、芳ちゃんは小さい目を變な具合にして、
『ハイ行きますよ。貴方《あなた》の位《くれゑ》隔てなくして呉れる人ア無《ね》えだもの。』
と云つて、大人《おとな》しく出て行く。私は何日か、此女は、アノ大きな足で、「眞面目」といふものの影を消して歩く女だと考へた事があつた。
 社に行くと、何日《いつ》でも事務室を通つて二階に上るのだが、餘り口も利かぬ目の凹んだあ事務長までが、私の顏を見ると、
『今日は橘さんへ郵便が來て居なんだか。』
と受付の者に聞くと云つた調子。編輯局へ入つても、兎角私のフフンと云ふ氣持を唆《そそ》る樣な話が出る。
 其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》話を出さぬのは、主筆だけであつた。主筆は、體格の立派な、口髭の嚴《いかめ》しい、何處へ出しても敗《ひけ》をとらぬ風采の、四十年輩の男で、年より早く前頭の見事に禿げ上つてるのは、女の話にかけると甘くなる性《たち》な事を語つて居た。が、平生は至つて口少なな、
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