人で無いと味方になれん樣な氣がする。』
『私の顏は隨分古いけれど、今夜は染直したから新しくなつたでせう。』と、志田君は、首から赤銅色になつた醉顏を突出して笑つた。
 市子は、仰ぐ樣にして横から日下部君の顏を見て居たが、
『私一度貴方にお目にかかつてよ、ねえ。』
『さうか、僕は氣が附かなかつた。』
『マア、以前《このまへ》も家《うち》へ入《いら》しつた癖に、…………薄情な人ね、此方は。』
と云つて、夢見る樣な目を私に向けて、微かな笑ひを含む。
『橘さんは餘り飮《や》らん方ですね。』と云つた樣な機會《きつかけ》から、日下部君と志田君の間に酒の論が湧いて、寢酒の趣味は飮んでる時よりも飮んで了つてからにある、但しこれは獨身者でなくては解りかねる心持だと云ふ志田君の説が、隨分と立入つた語を以て人々に腹を抱へさせた。日下部君は朝に四合、晩に四合飮まなくては仕事が出來ぬといふ大酒家で、成程|先刻《さつき》から大分傾けてるに不拘《かゝわらず》、少しも醉つた風が見えなかつたが、
『僕は女にかけては然程《さほど》慾の無い方だけれど、酒となつちや然《さ》うは行かん。何處かへ、一寸飮みに行つても、銚子を握つて見て、普通より太いと滿足するが、細いとか輕いとかすると、モウ氣を惡くする。錢の無い時は殊にさうだね。』
『アッハハハ。』
と突然大きな笑聲がしたので、人々は皆顏をあげた。それは菊池君であつた。
『私もそれならば至極同感ですな。』
と調子の重い太い聲。手は矢張|胡坐《あぐら》の兩膝を攫んで、グッと反返つて居た。
 菊池君はヤヲラ立ち上つて、盃を二つ持つて來たが、「マア此方へ來給へ。菊池君。」と云ふ西山社長の聲がしたので、盃を私と志田君に返した儘其方へ行つて了つた。西山は何時しか向うの隅の方へ行つて、私の方の主筆と、「札幌タイムス」の支社長と三人で何か話合つて居た。
 座敷の中央が、取片付けられるので、何かと思つたら、年長な藝妓が三人三味線を抱へて入口の方に列んだ。市子が立つて踊が始まる。
「香に迷ふ」とか云ふので、もとより端物ではあるけれど、濃艶な唄の文句が醉ふた心をそれとなく唆《そゝの》かす。扇の銀地に洋燈《ランプ》の光が映えて、目の前に柔かな風を匂はせる袂長く、そちら向けば朱の雲の燃ゆるかと眩しき帶の立矢の字、裾の捌きが青疊に紅の波を打つて、トンと輕き拍子毎に、チラリと見える足袋は殊
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