と寢た事が無いさうです。然うだつたね、市ちやん?』
『おかめ[#「おかめ」に傍点]屋なんて、人を。酷い事旦那は。』
と市子は怖い目をして見せたが、それでも志田君の貸した盃を受取つて、盃洗に淨めて私に獻《さ》した。
『印度の炭山の旦那のお媒介《とりもち》ですから、何卒末長く白ツぱくれない樣に……』
『印度の炭山の旦那は酷い。』と志田君の聲が高かつたので、皆|此方《こつち》を見た。『いくら私は色が黒いたつて、隨分念を入れた形容をしたもんだ。』
 一座の人は聲を合せて笑つた。
 私は初めての事でもあり、且つは、話題を絶やさぬ志田君と隣つて居る故か、自《おのづ》と人の目について、返せども返せども、盃が集つて來る。生來餘り飮《いけ》ぬ口なので、顏は既《もう》ポツポと上氣して、心臟の鼓動が足の裏までも響く。二つや三つなら未だしもの事、私の樣な弱い者には、四つ五つと盃の列んだのを見ると、醒め果てた戀に向ふ樣で、モウ手も觸《つ》けたくない。藝妓には珍しく一滴も飮まぬ市子は、それと覺つてか、密と盃洗を持つて來て、志田君に見られぬ樣に、一つ宛空けて呉れて居たが、いつしか發覺して例の圓轉自在の舌から吹聽に及ぶ。「市ちゃんも仲々腕が上つた」とか、「今の若い者は、春秋に富んで居る癖に惚れ方が性急《せつかち》だ」とか、「橘さんも隅に置けぬ」とか、一座は色めき立つて囂々《がや/\》と騷ので、市子は、
『私|此方《こつち》の爲にしたんぢやなくて、皆さんが盃を欲しさうにして被居《いらつしや》るから空《あ》けて上げたのですわ。』
と防いで見たが、遂々顏を眞赤にして次の室へ逃げた。私も皆と一緒になつて笑つた。暫時《しばらく》してから市子は輕い咳拂をして、怎《どう》やら取濟した顏をして出て來たが、いきなり復《また》私の前に坐つた。人々は、却つて之を興ある事にして、モウ市子々々と呼び立てなくなつた。
『菊池さんて方が。』と女中が襖を開けて、敷居際に手をついた。話がバタリと止んで、視線が期せずして其方に聚《あつま》る。ヌッと許り鬚面が入つて來た。
 私は吸差の莨を灰に差した、人々は盃を下に置いた。西山社長は忙がしく居住ひを直して、此新來の人を紹介してから、
『馬鹿に遲いから來ないのかと思つて居た。』
と、さも容態ぶつて云つた。
『え、遲くなりました。』
と菊池君は吃る樣に答へて、變な笑ひを浮べ乍ら、ヂロヂロ一
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