なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまり[#「まとまり」に丸傍点]があってはならぬ。(まとまり[#「まとまり」に丸傍点]のある詩すなわち文芸上の哲学は、演繹的《えんえきてき》には小説となり、帰納的《きのうてき》には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻《ちょうじり》と月末もしくは年末決算との関係である。)そうして詩人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。
    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 粗雑《そざつ》ないい方ながら、以上で私のいわんとするところはほぼ解ることと思う。――いや、も一ついい残したことがある。それは、我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた詩[#「現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた詩」に白丸傍点]でなければならぬということである。
 そうして私は、私自身現在の諸詩人の詩に満足するか否かをいう代りに、次の事をいいたい。――諸君のまじめな研究は外国語の知識に乏《とぼ》
前へ 次へ
全20ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング