度をもたねばならぬ。
 すこし別なことではあるが、先ごろ青山学院で監督か何かしていたある外国婦人が死んだ。その婦人は三十何年間日本にいて、平安朝文学に関する造詣《ぞうけい》深く、平生日本人に対しては自由に雅語《がご》を駆使《くし》して応対したということである。しかし、その事はけっしてその婦人がよく日本を了解《りょうかい》していたという証拠にはならぬではなかろうか。

 詩は古典的でなければならぬとは思わぬけれども、現在の日常語は詩語としてはあまりに蕪雑《ぶざつ》である、混乱している、洗練されていない。という議論があった。これは比較的有力な議論であった。しかしこの議論には、詩そのものを高価なる装飾品のごとく、詩人を普通人以上、もしくは以外のごとく考え、または取扱おうとする根本の誤謬《ごびゅう》が潜《ひそ》んでいる。同時に、「現代の日本人の感情は、詩とするにはあまりに蕪雑である、混乱している、洗練されていない」という自滅《じめつ》的の論理を含んでいる。
 新らしい詩に対する比較的まじめな批評は、主としてその用語と形式とについてであった。しからずんば不謹慎《ふきんしん》な冷笑であった。ただそ
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