ちおうもっともな議論である。しかし我々が「淋しい」と感ずる時に、「ああ淋しい」と感ずるのであろうか、はたまた「あな淋し」と感ずるであろうか。「ああ淋しい」と感じたことを「あな淋し」といわねば満足されぬ心には徹底と統一が欠けている。大きくいえば、判断=実行=責任というその責任を回避する心から判断をごまかしておく状態である。趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味でなければならぬのだが、おうおうにして、その判断をごまかした状態の事のように用いられている。そういう趣味ならば、すくなくとも私にとっては極力|排斥《はいせき》すべき趣味である。一事は万事である。「ああ淋しい」を「あな淋し」といわねば満足されぬ心には、無用の手続があり、回避があり、ごまかしがある。それらは一種の卑怯《ひきょう》でなければならぬ。「趣味の相違だからしかたがない」とは人のよくいうところであるが、それは「いったとてお前に解りそうにないからもういわぬ」という意味でないかぎり、卑劣極まったいい方といわねばならぬ。我々は今まで議論以外もしくは以上の事として取扱われていた「趣味」というものに対して、もっと厳粛《げんしゅく》な態
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