れないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途《みち》である。
 以上のいい方はあまり大雑駁《おおざっぱ》ではあるが、二三年来の詩壇の新らしい運動の精神は、かならずここにあったと思う。否、あらねばならぬと思う。かく私のいうのは、それらの新運動にたずさわった人たちが二三年前に感じたことを、私は今始めて切実に感じたのだということを承認するものである。
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 新らしい詩の試みが今までに受けた批評について、二つ三ついってみたい。
「なり[#「なり」に白丸傍点]とである[#「である」に白丸傍点]もしくはだ[#「だ」に白丸傍点]の相違にすぎない」という人があった。それは日本の国語がまだ語格までも変るほどには変遷《へんせん》していないということを指摘したにすぎなかった。
 人の素養と趣味とは人によって違う。ある内容を表出せんとするにあたって、文語によると口語によるとは詩人の自由である。詩人はただ自己の最も便利とする言葉によって歌うべきである。という議論があった。い
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