く岩手山
名さへ優しき姫神の
山の間を流れゆく
千古の水の北上に
心を洗ひ……
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と此處まで歌つたときは、恰度《ちやうど》職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ處である。歌は止んだ。此數分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つてゐたのである。――然も心の聲のあらん限りをしぼつて。
 不圖氣がつくと、世界滅盡の大活劇が一秒の後に迫つて來たかと見えた。校長の顏は盛んな山火事だ。そして目に見ゆる程ブル/\と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて飢饉に逢つた仁王樣の樣に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い靜脈が顏一杯に脹れ出して居る。
 榮さんは了輔の耳に口を寄せて、何か囁いて居る。了輔は目を象の鼻穴程に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて熱心に聞いて居る。どちらかと云へば生來太い方の聲なので、返事をするのが自分にも聞える。
『……ナニ、此歌を?……ウム……勝つたか、ウム、然うさ、然うとも、見たかつたナ……飮まないつて、酒を?……然し赤いな、赤鰻ツ。』
 最後の聲が稍高かつた。古山は激しい聲で、
『校長さん。』
と叫んだ。校長は立つた。轉機《はずみ》で椅子が後《うしろ》に倒れた。妻君は未《ま》だ動かないで居る。然し其顏の物凄い事。
『彼方《あつち》へ行け。』
『彼方へお出なさい。』
 自分と女教師とは同時に斯う云つて、手を動かし、目で知らせた。了輔の目と自分の目と合つた。自分は目で強く壓した。
 了輔は遂に驅け出した。
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そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標《はかじるし》、
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と歌ひ乍ら。他の兒等も皆彼の跡を追うた。
『勝つた先生萬歳』
と鬨の聲が聞える。五六人の聲だ。中に、量のある了輔の聲と、榮さんのソプラノなのが際立《きはだ》つて響く。
 自分の目と女教師の目と礑《はた》と空中で行き合つた。その目には非常な感激が溢れて居る。無論自分に不利益な感激でない事は、其光り樣で解る。――恰《あたか》も此時、
 恰も此時、玄關で人の聲がした。何か云ひ爭うて居るらしい。然し初めは、自分も激して居る故《せゐ》か、確《しか》とは聞き取れなかつた。一人は小使の聲である。一人は? どうも前代未聞の聲の樣だ。
『……何云つたつて、乞食《こじき》は矢ツ張乞食だんべい。今も云ふ通り、學校はハア、乞食などの來る所でねエだよ。校長さアが何日も云ふとるだ、癖がつくだで乞食が來たら、何《ど》ねエな奴でも追拂つてしまへツて。さツさと行かつしやれ、お互に無駄な暇取るだアよ。』と小使の聲。
 凛とした張のある若い男の聲が答へる。『それア僕は乞食には乞食だ、が、普通の乞食とは少々格が違ふ。ナニ、強請《ゆすり》だんべいツて? ヨシ/\、何でも可いから、兎に角其手紙を新田といふ人に見せてくれ。居るツて今云つたぢやないか。新田白牛といふ人だ。』
 ハテナ、と自分は思ふ。小使がまた云ふ。
『新田耕助先生ちう若けエ人なら居るだが、はくぎう[#「はくぎう」に傍点]なんて可笑《をか》しな奴ア一人だつて居ねエだよ。耕助先生にア乞食に親類もあんめエ。間違エだよ。コレア人違エだんべエ。之エ返しますだよ。』
『困つた人だね、僕は君には些《ちつ》とも用はないんだ。新田といふ人に逢ひさへすれば可い。たゞ新田君に逢へば滿足だ、本望だ。解つたか、君。……お願ひだから其手紙を、ね、頼む。……これでも不可《いかん》といふなら、僕は自分で上つて行つて、尋ねる人に逢ふ迄サ。』
 自分は此時、立つて行つて見ようかと思つた。が、何故か敢へて立たなかつた。立派な美しい、堂々たる、廣い胸の底から滯りなく出る樣な聲に完たく醉はされたのであらう。自分は、何故といふ事もなく、時々寫眞版で見た、子供を抱いたナポレオンの顏を思出した。そして、今玄關に立つて自分の名を呼んで逢ひたいと云つて居る人が、屹度其ナポレオンに似た人に相違ないと思つた。
『そ、そねエ事して、何《ど》うなるだアよ。俺ハア校長さアに叱られ申すだ。ぢやア、マア待つて居さつしやい。兎に角此手紙丈けはあの先生に見せて來るだアから。……人違エにやきまつてるだア。俺これ迄十六年も此學校に居るだアに、まだ乞食から手紙見せられた先生なんざア一人だつて無エだよ。』
 自分の心は今一種奇妙な感じに捉へられた。周圍《あたり》を見ると、校長も古山も何時の間にか腰を掛けて居る。マダム馬鈴薯はまだ不動の姿勢をとつてゐる。女教師ももとの通り。そして四人の目は皆、何物をか期待する樣に自分に注がれて居る。其昔、大理石で疊んだ壯麗なる演戲場の棧敷から、罪なき赤手の奴隷――完たき『無力』の選手――が、暴力の權化なる巨獸、換言すれば獅子《ライオン》と呼ばれたる神權の帝王に對して、如何程の抵抗を試み得るものかと興ある事に眺め下した人々の目附、その目附も斯くやあつたらうと、心の中に想はるる。
 村でも「佛樣」と仇名せらるる好人物の小使――忠太と名を呼べば、雨の日も風の日も、『アイ』と返事をする――が、厚い脣に何かブツ/\呟《つぶ》やき乍ら、職員室に這入つて來た。
『これ先生さアに見せて呉れ云ふ乞食が來てますだ。ハイ。』
と、變な目をしてオヅ/\自分を見乍ら、一通の封書を卓子に置く。そして、玄關の方角に指ざし乍ら、左の目を閉ぢ、口を歪め、ヒョットコの眞似をして見せて、
『變な奴でがす。お氣を附けさつしやい。俺、樣々斷つて見ましたが、どうしても聽かねエだ。』
と小言で囁く。
 默つて封書を手に取上げた。表には、勢のよい筆太の〆が殆んど全體に書かれて、下に見覺えのある亂暴な字體で、薄墨のあやなくにじんだ『八戸《はちのへ》ニテ、朱雲』の六字。日附はない。『ああ、朱雲からだ!』と自分は思はず聲を出す。裏を返せば『岩手縣岩手郡S――村尋常高等小學校内、新田白牛樣』と先以て眞面目な行書である。自分は或事を思ひ出した、が、兎も角もと急いで封を切る。すべての人の視線は自分の痩せた指先の、何かは知れぬ震ひに注がれて居るのであらう。不意に打出した胸太鼓、若き生命の轟きは電《いなづま》の如く全身の血に波動を送る。震ふ指先で引き出したのは一枚の半紙、字が大きいので、文句は無論極めて短かい。
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爾來大に疎遠、失敬。
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 これ丈けで二行に書いてある。
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石本俊吉此手紙を持つて行く。君は出來る丈けの助力を此人物に與ふべし。小生生れて初めて紹介状なるものを書いた。
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六月二十五日
[#地から4字上げ]天野朱雲拜
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新田耕サン
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 そして、上部の餘白へ横に
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(獨眼龍ダヨ。)と一句。
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 世にも無作法極まる亂暴な手紙と云へば、蓋し斯くの如きものの謂であらう。然も之は普通の消息ではない。人が、自己の信用の範圍に於て、或る一人を、他の未知の一人に握手せしむる際の、謂はば、神前の祭壇に讀み上ぐべき或る神聖なる儀式の告文、と云つた樣な紹介状ではないか。若し斯くの如き紹介状を享《う》くる人が、温厚篤實にして萬《よろづ》中庸を尚《たつと》ぶ世上の士君子、例へば我校長田島氏の如きであつたら、恐らく見もせぬうちから玄關に立つ人を前門の虎と心得て、いざ狼の立塞がぬ間にと、草履《ざうり》片足で裏門から逃げ出さぬとも限らない。然も此一封が、嘗てこのS――村に呱々の聲を擧げ、この學校――尤も其頃は校舍も今の半分しか無く、教師も唯の一人、無論高等科設置以前の見すぼらしい單級學校ではあつたが、――で、矢張り穩健で中正で無愛憎《ぶあいそう》で、規則と順序と年末の賞與金と文部省と妻君とを、此上なく尊敬する一教育者の手から、聖代の初等教育を授けられた日本國民の一人、當年二十七歳の天野大助が書いたのだと知つたならば、抑々何の辭を以て其驚愕の意を發表するであらうか。實際これでは紹介状ドコロの話ではない。命令だ、しかも隨分亂暴な命令だ、見ず知らずの獨眼龍に出來る限りの助力をせよといふのだもの。然し乍ら、この驚くべき一文を胸轟かせて讀み終つた自分は、決して左樣は感じなんだ。敢て問ふ、世上滔々たる浮華虚禮の影が、此の手紙の隅に微塵たりとも隱れて居るか。※[#始め二重括弧、1−2−54]一金三兩也。馬代。くすかくさぬか、これどうぢや。くすといふならそれでよし、くさぬにつけてはたゞおかぬ。うぬがうでには骨がある。※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ、昔さる自然生《じねんじよ》の三吉が書いた馬代の請求の附状《つけじやう》が、果して大儒《たいじゆ》新井白石の言の如く千古の名文であるならば、簡にしてよく其要を得た我が畏友朱雲の紹介状も亦、正に千古の名文と謂《いひ》つべしである。のみならず、斯くの如き手紙を平氣で書き、亦平氣で讀むという彼我《ひが》二人の間は、眞に同心一體、肝膽相照すといふ趣きの交情でなくてはならぬ。一切の枝葉を掃《はら》ひ、一切の被服《ひふく》を脱《ぬ》ぎ、六尺|似神《じしん》の赤裸々を提げて、平然として目ざす城門に肉薄するのが乃《すなは》ち此手紙である。此平然たる所には、實に乾坤《けんこん》に充滿する無限の信用と友情とが溢れて居るのだ。自分は僅か三秒か四秒の間にこの手紙を讀んだ。そして此瞬間に、躍々たる畏友の面目を感じ、其温かき信用と友情の囁きを聞いた。
『よろしい。此室《こゝ》へお通し申して呉れ。』
『乞食をですかツ』
と校長が怒鳴つた。
『何だつてそれア餘りですよ。新田さん。學校の職員室へ乞食なんぞを。』
 斯う叫んだのは、窓の硝子もピリ/\とする程|甲高《かんだか》い、幾億劫來聲を出した事のない毛蟲共が千萬疋もウヂャウヂャと集まつて雨乞の祈祷でもするかの樣な、何とも云へぬ厭な聲である。舌が無いかと思はれたマダム馬鈴薯の、突然噴火した第一聲の物凄さ。
 小使忠太の團栗眼はクル/\/\と三※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉した。度を失つてまだ動かない。そこで一つ威嚇の必要がある。
『お通し申せ。』
と自分は一喝を喰はした。忠太はアタフタと出て行つた、が、早速《すぐ》と復引き返して來た。後には一人物が隨つて居る。多分既に草鞋を解《と》いて、玄關に上つて居つたのであらう。
『新田さん、貴君はそれで可いのですか。よ、新田さん、貴君一人の學校ではありませんよ。人ツ、代用のクセに何だと思つてるだらう。マア御覽なさい。アンナ奴。』
 馬鈴薯が頻りにわめく。自分は振向きもしない。そして、今しも忠太の背から現はれむとする、「アンナ奴」と呼ばれたる音吐朗々のナポレオンに、渾身の注意を向けた。朱雲の手紙に「獨眼龍ダヨ」と頭註がついてあつたが、自分はたゞ單に、ヲートルローの大戰で誤つて一眼を失つたのだらう位に考へて、敢て其爲めに千古の眞骨頭ナポレオン・ボナパルトの颯爽たる威風が、一毫たりとも損ぜられたものとは信じなんだのである。或は却つて一段の秋霜烈日の嚴を増したのではないかと思つた。
 忠太は體を横に開いて、ヒョコリと頭を下げる。や否や、逃ぐるが如く出て行つてしまつた。
 天が下には隱家《かくれが》もなくなつて、今|現身《げんしん》の英傑は我が目前咫尺の處に突兀として立ち給うたのである。自分も立ち上つた。
 此時、自分は俄かに驚いて叫ばんとした。あはれ千載萬載一遇の此月此日此時、自分の双眼が突如として物の用に立たなくなつたのではないか。これ程劇甚な不幸は、またとこの世にあるべきでない。自分は力の限り二三度|瞬《またゝ》いて見て、そして復《また》力の限り目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。然しダメである。ヲートルローの大戰に誤つて流彈の爲めに一眼を失なひ、却つて一段秋霜烈日の嚴を加へた筈のナポレオン・ボナパルトは、既に長《とこ》しなへに新田耕助の仰ぎ見るべからざるものとなつたのである。自分の大きく※[#
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