金僅か六錢五厘では、いくら慣れた貧乏でも誠に心細いもんですよ。それに、宿から借りて居た自炊の道具も皆返して了ふし、机も何もなくなつてるし、薄暗い室の中央《まんなか》に此不具な僕が一人坐つてるのでせう。平常《ふだん》から鈍い方の頭が昨夜の故でスッカリ勞れ切つてボンヤリして、「老父《おやぢ》が死んで、これから乞食をして國へ歸るのだ」といふ事だけが、漠然と頭に殘つてるんです。此漠然とした目的も手段も何もない處が、無性に悲しいんで、たゞもう聲を揚げて泣きたくなるけれども、聲も出ねば涙も出ない。何の事なしにたゞ辛くて心細いんですネ。今朝飯を喰はなかつたので、空腹ではあるし、國の事が氣になるし、昨夜《ゆうべ》の黒玉をつかんで無暗に頬ばつて見たんです。
『それから愈々出掛けたんですが、一時頃でしたらう、天野君の家へ這入つたのは。天野君も以前は大抵夜分でなくては家に居なかつたのですが、學校を罷《や》めてからは、一日外へ出ないで、何時でも蟄居《ちつきよ》して居るんです。』
『天野は罷めたんですか、學校を?』
『エ? 左樣々々、君はまだ御存じなかつたんだ。罷めましたよ、到頭。何でも校長といふ奴と、――僕も
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