く岩手山
名さへ優しき姫神の
山の間を流れゆく
千古の水の北上に
心を洗ひ……
[#ここで字下げ終わり]
と此處まで歌つたときは、恰度《ちやうど》職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ處である。歌は止んだ。此數分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つてゐたのである。――然も心の聲のあらん限りをしぼつて。
 不圖氣がつくと、世界滅盡の大活劇が一秒の後に迫つて來たかと見えた。校長の顏は盛んな山火事だ。そして目に見ゆる程ブル/\と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて飢饉に逢つた仁王樣の樣に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い靜脈が顏一杯に脹れ出して居る。
 榮さんは了輔の耳に口を寄せて、何か囁いて居る。了輔は目を象の鼻穴程に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて熱心に聞いて居る。どちらかと云へば生來太い方の聲なので、返事をするのが自分にも聞える。
『……ナニ、此歌を?……ウム……勝つたか、ウム、然うさ、然うとも、見たかつたナ……飮まないつて、酒を?……然し赤いな、赤鰻ツ。』
 最後の聲が稍高かつた。古
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