閃めく、尋常科一年の受持であるが、誠に善良なナースである。で、大抵自分の云ふ事が解る。理のある所には屹度《きつと》同情する。然し流石に女で、それに稍々思慮が有過《ありす》ぎる傾があるので、今日の樣な場合には、敢て一言も口を出さない。が、其眼球の輕微なる運動は既に十分自分の味方であることを語つて居る。況んや、現に先刻この女が、自分の作つた歌を誰から聞いたものか、低聲に歌つて居たのを、確かに自分は聽いたのだもの。
 さて、自分は此處で、かの歌の如何にして作られ、如何にして傳唱されたかを、詳《つまび》らかに説明した。そして、最後の言葉が自分の脣から出て、校長と首座と女教師と三人六箇の耳に達した時、其時、カーン、カーン、カーン、と掛時計が、懶氣に叫んだのである。突然『アーア』といふ聲が、自分の後《うしろ》、障子の中から起つた。恐らく頭痛で弱つて居るマダム馬鈴薯が、何日もの如く三|歳《つ》になる女の兒の帶に一條の紐を結び、其一端を自身の足に繋いで、危い處へやらぬ樣にし、切爐《きりろ》の側に寢そべつて居たのが、今時計の音に眞晝の夢を覺されたのであらう。『アーア』と又聞えた。
 三秒、五秒、十秒、と
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