ある。無論自分は、かの妻君の頭痛一件まで持ち出したのではない、が、自分の言葉の終るや否や、或者はドンと一つ床を蹴つて一喝した、『校長馬鹿ツ。』更に他の聲が續いた、『鰻ツ。』『蒲燒にするぞツ。』最後に『チェースト』と極めて陳腐な奇聲を放つて相和した奴もあつた。自分は一|盻《げい》の微笑を彼等に注ぎかけて、靜かに歩みを地獄の門に向けた。軈て十五歩も歩んだ時、急に後《うしろ》の騷ぎが止《や》んだ、と思ふと、『ワン、ツー、スリー、泥鰻《どろうなぎ》――』と、校舍も爲めに動く許りの鬨の聲、中には絹裂く樣な鋭どい女生徒の聲も確かに交つて居る。餘りの事に振向いて見た、が、此時は既に此等革命の健兒の半數以上は生徒昇降口から風に狂ふ木の葉の如く戸外へ飛び出した所であつた。恐らく今日も門前に遊んで居る校長の子供の小さい頭には、時ならぬ拳《こぶし》の雨の降つた事であらう。然し控處にはまだ空しく歸りかねて殘つた者がある。機會を見計つて自分に何か特にお話を請求しようといふ執心の輩《てあひ》、髮長き兒も二人三人見える、――總て十一二人。小使の次男なのと、女教師の下宿して居る家の兒と、(共に其縁故によつて、校長閣下から多少大目に見られて居る)この二人は自分の跡から尾《つ》いて來たまゝ、先刻《さつき》からこの地獄の入口に門番の如く立つて、中の樣子を看守して居る。
 入口といふのは、紙の破れた障子二枚によつて此室と生徒控處とを區別したもので、校門から眞直の玄關を上ると、すぐ左である。この入口から、我が當面の地獄、――天井の極く低い、十疊敷位の、汚點《しみ》だらけな壁も、古風な小形の窓も、年代の故《せゐ》で歪《ゆが》んだ皮椅子も皆一種人生の倦怠を表はして居る職員室に這入ると、向つて凹字形に都合四脚の卓子《テーブル》が置かれてある。突當りの並んだ二脚の、右が校長閣下の席で、左は檢定試驗上りの古手の首座訓導、校長の傍が自分で、向ひ合つての一脚が女教師のである。吾校の職員と云へば唯この四人だけ、自分が其内最も末席なは云ふ迄もない。よし百人の職員があるにしても代用教員は常に末席を仰せ付かる性質のものであるのだ。御規則とは隨分陳腐な洒落《しやれ》である。サテ、自分の後は直ちに障子一重で宿直室になつて居る。
 此職員室の、女教師の背なる壁の掛時計が懶うげなる悲鳴をあげて午後三時を報じた時、其時四人の職員は皆各自の
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