披瀝《ひれき》した所が、さうでせう。』
 これには返事が無い。
『其細目といふ矢釜敷《やかましい》お爺さんに、代用教員は教壇以外にて一切生徒に教ふべからず、といふ事か、さもなくんば、學校以外で生徒を教へる事の細目とかいふものが、ありますか。』
『細目にそんな馬鹿な事があるものか。』と校長は怒つた。
『それなら安心です。』
『何が安心だ。』
『だつて、さうでせう。先刻詳しくお話した通り、私があの歌を教へたのは、二三日前、乃ちあれの出來上つた日の夜に、私の宅に遊びに來た生徒只の三人だけなのですから、何も私が細目のお爺さんにお目玉を頂戴する筈はないでせう。若しあの歌に、何か危險な思想でも入れてあるとか、又は生徒の口にすべからざる語でもあるなら格別ですが、……。イヤ餘程心配しましたが、これで青天白日|漸々《やう/\》無罪に成りました。』
 全勝の花冠は我が頭上に在焉《あり》。敵は見ン事鐵嶺以北に退却した。劍折れ、馬斃れ、彈丸盡きて、戰の續けられる道理は昔からないのだ。
『私も昨日、あれを書いたのを榮さん(生徒の名)から借りて寫したんですよ。私なんぞは何も解りませんけれども、大層もう結構なお作だと思ひまして、實は明日唱歌の時間にはあれを教へようと思つたんでしたよ。』
 これは勝誇つた自分の胸に、發矢《はつし》と許り投げられた美しい光榮の花環であつた。女教師が初めて口を開いたのである。

      二

 此時、校長田島金藏氏は、感極まつて殆んど落涙に及ばんとした。初めは怨めしさうに女教師の顏を見てゐたが、フイと首を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らして、側に立つ垢臭い女神、頭痛の化生、繻子の半襟をかけたマダム馬鈴薯を仰いだ。平常《いつも》は死んだ源五郎鮒の目の樣に鈍い目も、此時だけは激戰の火花の影を猶留めて、極度の恐縮と嘆願の情にやゝ濕みを持つて居る。世にも弱き夫が渾身の愛情を捧げて妻が一顧の哀憐を買はむとするの圖は正に之である。然し大理石に泥を塗つたやうな女神の面は微塵も動かなんだ。そして、唯一聲、『フン、』と云つた。噫世に誰か此フンの意味の能く解る人があらう。やがて身を屈《かゞ》めて、落ちて居た櫛を拾ふ。抱いて居る兒はまだ乳房を放さない。隨分強慾な兒だ。
 古山は、野卑な目付に憤怒の色を湛へて自分を凝視して居る。水の面の白い浮標《うき》の、今沈むかと氣が氣でな
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