せんか?』
『さうですか!』卒氣なく言つて、車掌は貴婦人の意に從つた。そして近づきつゝある次の停留場の名を呼びながら車掌臺に戻つた。
 貴婦人は其一枚の切符を丁寧に四つに疊んで、紙入の中に藏《しま》つた。それでも未だ心が鎭らぬと見えて、『何て物の解らない車掌だらう。』とか、『私が不注意だから爲方がないけれども。』とかぶつぶつ呟いてゐた。
『待合の女將《おかみ》でえ!』突然さう言つた者が有つた。私は驚いて目を移した。其處には吸ひさしの卷煙草を耳に挾んだ印半纏を着た若い男が、私と同じ心を顏に表して、隅の方から今の婦人を睨めて居た。
 其の時の心は、蓋し、此の文を讀む人の想像する通りである。そして私は、其烈しい厭惡の情の間に、前段に抄譯した、ヴオルガ河の汽船の中に起つた事件を思ひ起してゐた。――日本人の國民的性格といふ問題に考へを費すことを好むやうになつた近頃の私の頭腦《あたま》では、此事件を連想する事が必ずしも無理でなかつた。
 私は毎日電車に乘つてゐる。此電車内に過ごす時間は、色々の用事を有つてゐる急がしい私の生活に取つて、民衆と接觸する殆ど唯一の時間である。私は此時間を常に尊重してゐる
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