な調子だつた。『私が間違つたのが惡いのですから、別に買ひます。』
 そして帶の間から襤褸錦《つゞれにしき》の紙入を取出し、『まあ、細《こま》かいのが無かつたかしら。』と言ひながら、態とらしく幾枚かの紙幣の折り重ねたのを出して、紙入の中を覗いた。
『そんな事をなさらなくても可いんです。切符は上げると言つてるのですから。』言ひながら車掌は新らしい乘換切符に鋏を入れた。
『いゝえ可う御座んす。私が惡いのですから。』と貴婦人は復言つた。
 幾度の推問答の末に、車掌は今切つた乘換切符を口に啣へて、職務に服從する恐ろしい忍耐力を顏に表しながら、貴婦人の爲に新らしく往復切符を切らされた。
 そればかりでは濟まなかつた。車掌が無効に歸した先《せん》の乘換切符を其儘持つて行かうとすると、貴婦人は執念くも呼び止めて、
『それは私が貰つて行きます。こんな目に遭つたのは私は始めてゞすから、記念に貰つて行きます。家《うち》の女中共に話して聞かせる時の種にもなりますから。』と言つた。
『不用になつた乘換切符は車掌が頂くのが規則です。』
『車掌さん方の規則は私は知らないけれど、用に立たない物なら一枚位可いぢやありま
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