て理窟によって推移していないだけだ。たとえば、近頃の歌は何首|或《あるい》は何十首を、一首一首引き抜いて見ないで全体として見るような傾向になって来た。そんなら何故《なぜ》それらを初めから一つとして現さないか。一一分解して現す必要が何処にあるか、とあれに書いてあったね。一応|尤《もっと》もに聞えるよ。しかしあの理窟に服従すると、人間は皆死ぬ間際《まぎわ》まで待たなければ何も書けなくなるよ。歌は――文学は作家の個人性の表現だということを狭く解釈してるんだからね。仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩のことだから一つに纏《まと》めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連続はしているが初めから全体になっているのではない。きれぎれに頭に浮んで来る感じを後《あと》から後からときれぎれに歌ったって何も差支《さしつか》えがないじゃないか。一つに纏める必要が何処にあると言いたくなるね。
B 君はそうすっと歌は永久に滅びないと云うのか。
A おれは永久という言葉は嫌いだ。
B 永久でなくても可い。とにかくまだまだ歌は長生《ながいき》すると思う
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