りとしたる我にやはあらぬ
汝《な》が痩《や》せしからだはすべて
謀叛気《むほんぎ》のかたまりなりと
いはれてしこと
かの年のかの新聞の
初雪の記事を書きしは
我なりしかな
椅子《いす》をもて我を撃《う》たむと身構《みがま》へし
かの友の酔《ゑ》ひも
今は醒《さ》めつらむ
負けたるも我にてありき
あらそひの因《もと》も我なりしと
今は思へり
殴《なぐ》らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな
汝《なれ》三度《みたび》
この咽喉《のど》に剣《けん》を擬《ぎ》したりと
彼《かれ》告別《こくべつ》の辞《じ》に言へりけり
あらそひて
いたく憎《にく》みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来《き》ぬ
あはれかの眉《まゆ》の秀《ひい》でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑《ゑ》みしが
わが妻に着物|縫《ぬ》はせし友ありし
冬早く来《く》る
植民地かな
平手《ひらて》もて
吹雪《ふぶき》にぬれし顔を拭《ふ》く
友共産を主義とせりけり
酒のめば鬼《おに》のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ
樺太《からふと》に入《い》りて
新しき宗教を創《はじ》めむといふ
友なりしかな
治《をさ》まれる世の事無《ことな》さに
飽《あ》きたりといひし頃こそ
かなしかりけれ
共同の薬屋開き
儲《まう》けむといふ友なりき
詐欺《さぎ》せしといふ
あをじろき頬《ほほ》に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人《あきびと》
子を負《お》ひて
雪の吹き入《い》る停車場に
われ見送りし妻の眉《まゆ》かな
敵として憎みし友と
やや長く手をば握《にぎ》りき
わかれといふに
ゆるぎ出《い》づる汽車の窓より
人《ひと》先《さき》に顔を引きしも
負《ま》けざらむため
みぞれ降る
石狩《いしかり》の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
わが去れる後《のち》の噂《うはさ》を
おもひやる旅出《たびで》はかなし
死ににゆくごと
わかれ来《き》てふと瞬《またた》けば
ゆくりなく
つめたきものの頬をつたへり
忘れ来《き》し煙草《たばこ》を思ふ
ゆけどゆけど
山なほ遠き雪の野の汽車
うす紅《あか》く雪に流れて
入日影《いりひかげ》
曠野《あらの》の汽車の窓を照《てら》せり
腹すこし痛《いた》み出《い》でしを
しのびつつ
長路《ちやうろ》の汽車にのむ煙草《たばこ》かな
乗合《のりあひ》の砲兵士官《はうへいしくわん》の
剣の鞘《さや》
がちゃりと鳴るに思ひやぶれき
名のみ知りて縁《えん》もゆかりもなき土地の
宿屋《やどや》安けし
我が家《いへ》のごと
伴《つれ》なりしかの代議士の
口あける青き寐顔《ねがほ》を
かなしと思ひき
今夜こそ思ふ存分《ぞんぶん》泣いてみむと
泊《とま》りし宿屋の
茶のぬるさかな
水蒸気
列車の窓に花のごと凍《い》てしを染《そ》むる
あかつきの色
ごおと鳴る凩《こがらし》のあと
乾《かわ》きたる雪舞ひ立ちて
林を包《つつ》めり
空知川《そらちがは》雪に埋《うも》れて
鳥も見えず
岸辺《きしべ》の林に人ひとりゐき
寂莫《せきばく》を敵とし友とし
雪のなかに
長き一生を送る人もあり
いたく汽車に疲れて猶《なほ》も
きれぎれに思ふは
我のいとしさなりき
うたふごと駅の名呼びし
柔和《にうわ》なる
若き駅夫《えきふ》の眼をも忘れず
雪のなか
処処《しよしよ》に屋根見えて
煙突《えんとつ》の煙《けむり》うすくも空にまよへり
遠くより
笛《ふえ》ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入《い》る
何事も思ふことなく
日一日《ひいちにち》
汽車のひびきに心まかせぬ
さいはての駅に下《お》り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入《い》りにき
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路《くしろ》の海の冬の月かな
こほりたるインクの罎《びん》を
火に翳《かざ》し
涙ながれぬともしびの下《もと》
顔とこゑ
それのみ昔に変らざる友にも会ひき
国の果《はて》にて
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓《をり》を啜《すす》るごとくに
酒のめば悲しみ一時に湧《わ》き来《く》るを
寐《ね》て夢みぬを
うれしとはせし
出《だ》しぬけの女の笑ひ
身に沁《し》みき
厨《くりや》に酒の凍《こほ》る真夜中
わが酔《ゑ》ひに心いためて
うたはざる女ありしが
いかになれるや
小奴《こやつこ》といひし女の
やはらかき
耳朶《みみたぼ》なども忘れがたかり
よりそひて
深夜《しんや》の雪の中に立つ
女の右手《めて》のあたたかさかな
死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉《のんど》の痍《きず》を見せし女かな
芸事《げいごと》も顔も
かれより優《すぐ》れたる
女あしざまに我を言へりとか
舞《ま》へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒《あくしゆ》の酔《ゑ》ひにたふるるまでも
死ぬばかり我が酔《ゑ》ふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁《ささや》きし人
いかにせしと言へば
あをじろき酔《ゑ》ひざめの
面《おもて》に強《し》ひて笑《ゑ》みをつくりき
かなしきは
かの白玉《しらたま》のごとくなる腕に残せし
キスの痕《あと》かな
酔《ゑ》ひてわがうつむく時も
水ほしと眼《め》ひらく時も
呼びし名なりけり
火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家《いへ》に
かよひ慣《な》れにき
きしきしと寒さに踏めば板《いた》軋《きし》む
かへりの廊下の
不意のくちづけ
その膝《ひざ》に枕《まくら》しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり
さらさらと氷の屑《くづ》が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな
死にしとかこのごろ聞きぬ
恋がたき
才《さい》あまりある男なりしが
十年《ととせ》まへに作りしといふ漢詩《からうた》を
酔《ゑ》へば唱《とな》へき
旅に老《お》いし友
吸ふごとに
鼻がぴたりと凍《こほ》りつく
寒き空気を吸ひたくなりぬ
波もなき二月の湾《わん》に
白塗《しろぬり》の
外国船が低く浮かべり
三味線《さみせん》の絃《いと》のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜《よ》に
神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒《あかん》の山の雪のあけぼの
郷里《くに》にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味《さみ》にうたへるゆふべ
葡萄色《えびいろ》の
古き手帳にのこりたる
かの会合《あひびき》の時と処《ところ》かな
よごれたる足袋《たび》穿《は》く時の
気味《きみ》わるき思ひに似たる
思出《おもひで》もあり
わが室《へや》に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出《い》づる日
浪淘沙《らうたうさ》
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
二
いつなりけむ
夢にふと聴《き》きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり
頬《ほ》の寒き
流離《りうり》の旅の人として
路《みち》問《と》ふほどのこと言ひしのみ
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
ひややかに清き大理石《なめいし》に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ
世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳《ひとみ》の
今も目にあり
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ》の
瑕《きず》のごと
流離の記憶消しがたきかな
函館《はこだて》のかの焼跡《やけあと》を去りし夜《よ》の
こころ残りを
今も残しつ
人がいふ
鬢《びん》のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
馬鈴薯《ばれいしよ》の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種《たね》にまたなる
忘れかねつも
病《や》むと聞き
癒《い》えしと聞きて
四百里《しひやくり》のこなたに我はうつつなかりし
君に似し姿を街《まち》に見る時の
こころ躍《をど》りを
あはれと思へ
かの声を最一度《もいちど》聴《き》かば
すっきりと
胸や霽《は》れむと今朝《けさ》も思へる
いそがしき生活《くらし》のなかの
時折《ときおり》のこの物おもひ
誰《たれ》のためぞも
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出《い》でなむ
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
わかれ来《き》て年《とし》を重ねて
年《とし》ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
石狩《いしかり》の都《みやこ》の外の
君が家
林檎《りんご》の花の散りてやあらむ
長き文《ふみ》
三年《みとせ》のうちに三度《みたび》来《き》ぬ
我の書きしは四度《よたび》にかあらむ
手套を脱ぐ時
手套《てぶくろ》を脱《ぬ》ぐ手ふと休《や》む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
いつしかに
情《じやう》をいつはること知りぬ
髭《ひげ》を立てしもその頃なりけむ
朝の湯の
湯槽《ゆぶね》のふちにうなじ載《の》せ
ゆるく息《いき》する物思ひかな
夏|来《く》れば
うがひ薬の
病《やまひ》ある歯に沁《し》む朝のうれしかりけり
つくづくと手をながめつつ
おもひ出《い》でぬ
キスが上手《じやうず》の女なりしが
さびしきは
色にしたしまぬ目のゆゑと
赤き花など買はせけるかな
新しき本を買ひ来て読む夜半《よは》の
そのたのしさも
長くわすれぬ
旅《たび》七日《なのか》
かへり来《き》ぬれば
わが窓の赤きインクの染《し》みもなつかし
古文書《こもんじよ》のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙《すひとりがみ》をなつかしむかな
手にためし雪の融《と》くるが
ここちよく
わが寐飽《ねあ》きたる心には沁《し》む
薄れゆく障子《しやうじ》の日影《ひかげ》
そを見つつ
こころいつしか暗くなりゆく
ひやひやと
夜は薬の香《か》のにほふ
医者が住みたるあとの家《いへ》かな
窓硝子《まどガラス》
塵《ちり》と雨とに曇《くも》りたる窓硝子にも
かなしみはあり
六年《むとせ》ほど日毎日毎《ひごとひごと》にかぶりたる
古き帽子も
棄《す》てられぬかな
こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな
赤煉瓦《あかれんぐわ》遠くつづける高塀《たかべい》の
むらさきに見えて
春の日ながし
春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦|造《づくり》に
やはらかに降る
よごれたる煉瓦の壁に
降りて融《と》け降りては融くる
春の雪かな
目を病《や》める
若き女の倚《よ》りかかる
窓にしめやかに春の雨降る
あたらしき木のかをりなど
ただよへる
新開町《しんかいまち》の春の静けさ
春の街《まち》
見よげに書ける女名《をんなな》の
門札《かどふだ》などを読みありくかな
そことなく
蜜柑《みかん》の皮の焼くるごときにほひ残りて
夕《ゆふべ》となりぬ
にぎはしき若き女の集会《あつまり》の
こゑ聴《き》き倦《う》みて
さびしくなりたり
何処《どこ》やらに
若き女の死ぬごとき悩《なや》ましさあり
春の霙《みぞれ》降る
コニャックの酔《ゑ》ひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな
白き皿《さら》
拭《ふ》きては棚《たな》に重《かさ》ねゐる
酒場の隅《すみ》のかなしき女
乾きたる冬の大路《おほぢ》の
何処《いづく》やらむ
石炭酸《せきたんさん》のにほひひそめり
赤赤《あかあか》と入日《いりひ》うつれる
河ばたの酒場の窓の
白き顔かな
新しきサラドの皿《さら》の
酢《す》のかをり
こころに沁《し》みてかなしき夕《ゆふべ》
空色《そらいろ》の罎《びん》より
山羊《やぎ》の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけり
すがた見の
息《いき》のくもりに消されたる
酔《ゑ》ひうるみの眸《まみ》のかなしさ
ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨《くりや》にのこるハムのにほひかな
ひややかに罎《びん》のならべる棚《たな》の前
歯《は》せせる女を
か
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング