セ。やがてわかる時が来るだろう。
といってね。文句というものは、またたびと同じようになかなか調法なものさ。」
黒猫は口もとににやりと微笑を浮べたかと思うと、そのまま起き上って、足音も立てず草の中に姿を隠してしまいました。
「腹の中に虫が……。変だなあ。人間って奴、どこまで分らないずくめなんだろう。」
知慧自慢の第二の雀が焦茶色の円い頭を傾《かし》げて、さもさも当惑したように考え込むと、残りの雀も同じように腑に落ちなさそうな顔をして、きょろきょろしていました。
短気ものの蜜蜂は、悔《くや》しまぎれに直接行動でも思い込んだらしく、誰にも言葉を交わさないで、いきなり小さな羽を拡げて、森から外へ飛び出しました。
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肖像画
少年少女のために
むかし、天保の頃に、二代目一陽斎豊国という名高い浮世絵師がありました。
あるとき、豊国は蔵前の札差《ふださし》として聞えた某《なにがし》の老人から、その姿絵を頼まれました。どこの老人もがそうであるように、この札差も性急《せっかち》でしたから、絵の出来るのを待ちかねて、幾度か催促しました。ところが、多くの絵師のそれと同じように、豊国はそんな註文なぞ忘れたかのように、ながく打捨ておきました。
やっと三年目になって、姿絵は出来上りました。使に立った札差の小僧は、豊国の手から、主人の姿絵を受取って、それに眼を落しました。
「これはよくにていますな。うちの御隠居さんそっくりですよ。」
と思わず叫びながら、つくづく見とれていましたが、暫くするとその眼からはらはらと涙がこぼれかかろうとしました。すぐ前で煙草をふかしていた豊国は、それを見遁しませんでした。
「おい、おい。小僧さん。何だって涙なぞこぼすのだ。御隠居のお小言でも思い出したのかい。それならそれでいいが、絵面を濡らすことだけは堪忍してくんな。」
「いいえ、違います。」小僧は慌てて手の甲で、涙を受取りました。「私にも国もとにこの御隠居様と同じ年恰好のお祖父様《じいさま》があります。小さい時から大層私を可愛がってくれましたので、江戸へ奉公に出て来ても、一日だって忘れたことはありません。今これを見るにつけて、私のお祖父様をもこんな風に描いていただきましたら、どんなにか嬉しかろうと存じまして。」
「ふうん。そんな訳だったのか。お前、祖父さん思いだな。」豊国は口にくわえていた煙管を、ぽんと畳の上へ投げ出しました。「その孝心にめでて、お前の祖父さんを描いてやりたくは思うが、でも、遠い国許に居るのじゃ、そうもいかないし、ここで一つお前の姿絵を描いてやるから、それを国許へ送ってやったらどんなものだい。そんなに可愛がってくれた祖父さんだ。今も何かにつけて、お前を思い出しているだろうからな。」
「ありがとう存じます。」
小僧は感に余って、丁寧に頭を下げました。
「それじゃ、すぐ始めよう。まあ、こっちへ上んな。そして涙でも拭きねえ。」
豊国はすっかり上機嫌で、絵筆を取上げました。小僧は気恥かしそうにその前に坐って、きちんと膝の上に両手を揃えました。
絵は程なく出来上りました。豊国はそれに彩色まで施してやりました。
「さあ、これを送ってやりねえ。吾ながらよく出来たよ。」
「ありがとう存じます。お祖父様がどんなにか喜ぶことでしょう。」
小僧はこれがほんとうに自分の姿なのかと、不思議そうに絵に見入りました。そして遠い国にいる老人が、これを見るときの驚きと喜びとを胸に描いてみました。
自分の姿絵を小僧の手から受取った札差の老人は、
「よく出来た。そっくり俺に生写しだよ。これだったら三年かかったのに、少しも無理はないはずだ。」
と言って、大喜びに喜びました。しかし、小僧が半ば得意そうに、半ば言訳がましく、先刻のいきさつを話しながら、ふところから取出した今一枚の姿絵を見ると、また気むつかしくなりました。そしてやくざなものを扱うようにそれをそこに投げ出しました。
「何だ。つまらない。お前にちっとも似てやしないじゃないか。」
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道風の見た雨蛙
少年少女のために
細かい秋の雨がびしょびしょと降りしきる朝でした。久しぶりの雨なので、雨蛙はもう家にじっとしていられなくなって、上機嫌で散歩に出ました。濡れそぼった無花果の広い葉からは、甘そうな雫がしたたり落ちていました。雨蛙は竹垣の端からその葉の上へひょいと飛び移るなり、自慢の咽喉で、
「け、け、け……」
と一声鳴いてみました。すると、だしぬけにどこからか、
「先生。上機嫌ですな。」
と、声がかかりました。雨蛙はその声の主が誰であるかをすぐに感づきました。こんな雨の日に外を出歩こうというものは、自分を取り除けては、蟹と蝸牛《かたつむり》の外には誰もいないのに、蟹はあの通りの気むつかしやで、滅多に他人と口をきこうともしませんでしたから。
雨蛙はこっそり無花果の葉の裏をのぞき込みました。そこには柄のついた雨除け眼鏡をはめた蝸牛がいました。この友達は今日もいつものように大がかりに自分の家を背にしょっていました。
「や。お早う。やっぱりお前だったな。」
蝸牛は老人のように眼鏡越しに相手を見ました。
「お早う。上機嫌ですな、先生。」
「先生だって。おいおい、何だってそんなにあらたまるんだい。今朝に限って。」
雨蛙はからかわれでもしたようにいやな顔をしました。
「気に触ったらごめんなさい。じゃ、やっぱりこれまで通り、お前と呼ばしてもらおうか。」
蝸牛の態度には、どこかにあらたまったところがありました。きさくな雨蛙は、それが気に入らないように頬をふくらませていました。
「お前で結構さ。もともとおれたちは長い間の朋輩つきあいで、お天気嫌いな癖も、お互いにもってる仲じゃないか。」
「そう言ってくれるとうれしい。実はさっきお前も知っているあの従弟のなめくじから、お前の噂を聞いて、すっかり感心したもんだから、つい、その……」蝸牛はてれかくしに眼鏡をはずして、雨の雫を拭きとりました。「ところで、だしぬけに変なことを訊くようだが、お前、人間に近づきがあるそうだな。」
「人間にか。人間には幾人《いくたり》か近づきがあるよ。」雨蛙は相手の気色を見てとって、すっかり機嫌をなおしたようでした。「おれが歌の稽古をつけてもらったのも、やっぱり人間だったよ。」
「ほう、歌の稽古を……」
雨蛙は以前山に棲んでいた頃、程近い人家にまぎれ込んで、竹製の刀架《かたなかけ》の孔のなかにもぐり込んでいたことがありました。ちょうど春雨の頃で、雨の音を聞きながら、口から出まかせの節で歌を唱っていると、急に座敷の方から美しい笛の音が流れて来ました。それにつれて歌を合わせていると、自分の咽喉がびっくりするほど滑らかに調子に合って来たことを、雨蛙は気づきました。そんなことを四、五日繰りかえしているうちに、雨蛙はだんだん芸が上達して、その刀架の孔から、広い世間へ這い出して来た折には、もういっぱしの歌唱いになっていました。
雨蛙は今その話を蝸牛にして聞かせました。雨除け眼鏡をはめた友達は、すっかり感心しました。
「そしてその家の主人の名前は……」
「柳田将監という笛の名人だったよ。日光山に住んでいる……」雨蛙は自分の師匠の名を自慢そうに言って聞かせました。
「それじゃない。もっと外にもあるだろう。」
「あるとも。俳句の上手な一茶という男も知ってるよ。」
「その男はどこで知ったのだ。」
蝸牛は持ち重りのする背《せな》の家を揺ぶってみました。家のまわりから雨の雫が落ちかかりました。
「信濃路《しなのじ》の小さな田舎でだったよ。おれはその頃将監さんに仕込まれた咽喉でもって旅芸人を稼いでいたのだ。柏原という村へ来て、くたびれ休めにそこにあった小屋の縁側に腰をかけたものだ。気がつくと、暗い家のなかに貧乏くさい男が、じっとわしを見つめているじゃないか。気味が悪かったものだから、おれも苦りきっていてやったよ。すると、その男がうめくように一句|詠《よ》むじゃないか。
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われを見て苦い顔する蛙かな
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といってね。」
「へえ、変に気のひがんだ奴だな。」
「そうだよ。実際気のひがんだ奴らしかった。」雨蛙はまた話をつづけました。「お金を貸せとでも言われたら困ると思って、おれはそこそこに逃げ出しちゃった。すると貧乏爺《びんぼうおやじ》め、追っかけるようにまた一句投げつけるじゃないか。
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薄縁《うすべり》に尿《いばり》して逃る蛙かな
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といってね。相手怖さからおれが縁側にうっかり持病の小便をもらしたのを見つかったんだね。」
雨蛙は申訳がなさそうに滑《すべ》っこい頭をかきました。
「は、は、は、は。こいつは笑わせるよ。は、は、は。」蝸牛はたまらぬように笑いこけました。その拍子に雨除け眼鏡があぶなくはずれかかろうとしたのをやっともとへ直しながら、「一茶という奴、おかしな野郎だな。だが、もっと外にもあるはずだが……たしか小野道風とかいった……」
「小野道風……」雨蛙は忘れた名前をふるい出すように、二、三度頭を横にふりました。
「そんな人は知らないよ。ねっから記憶《おぼえ》がないようだ。」
「記憶《おぼえ》がないはずはない。あの人の名前をお前に忘れられたら、大変なことになる……」
蝸牛はこう言って、先刻従弟のなめくじに聞いたことを話して聞かせました。
それは小野道風といった名高い書家が、まだ修業盛りの頃、どうも一向芸が上達しないので、すっかり嫌気がさして、雨の降るなかを、ぶらぶら散歩に出かけました。ふと見ると、途ばたのしだれ柳の下に雨蛙が一匹いて、枝に飛びつこうとしています。幾度か飛んで、幾度か落ちしている末、とうとう骨折のかいがあって、枝に縋りつきました、それを見た道風はすっかり感心しました。
「何事も努力だな。あの蛙がわしにそれを教えてくれたのだ。」
と思った彼は、家に帰ってから夜を日についで、みっちり勉強を重ねました。やがて書道のえらい大家になったという話なのでした。
「何でもその道風とやらは、公卿《くげ》の次男坊だそうだから、お冠でも着ていたかも知れない。そんな男の記憶はないかしら。」
「ある。ある。やっと思い出した。ずっと以前にそんな男に出あったことがあったっけ。」雨蛙はだしぬけに大きな声で叫びました。「だが、話が少しほんとうのことと違っているようだ。おれは何も道風とやらに教えようと思って、そんなに骨を折っていたわけじゃないよ。」
「これ。そんなに大きな声を……」
蝸牛は慌てて眼でとめました。そして声をひそめて、この頃世間の噂によると、人間は雨蛙が道風を感化して、すぐれた書家をつくり上げた手柄を記念するために、今度銅像を建てようと目論んでいるという事を話しました。
「そんな場合じゃないか。話が違っているなどと、余計な口をきくものじゃないよ。」
銅像――と聞くだけでも、雨蛙は喜びました。彼は秋になると、鋭い嘴《くちばし》をもった鵙《もず》がやって来て、自分たちを生捕りにして、樹の枝に磔《はりつけ》にするのを何よりも恐れていました。あの癇癪《かんしゃく》もちの小鳥が、赤銅張《しゃくどうば》りの自分をどうにもあつかいかねている姿を想像するのは、雨蛙にとってこの上もない満足でした。
「だが、おれは着物を着ていない。すっ裸だ。こんな姿《なり》でもいいのかしら。」
雨蛙は心のなかでそう思うと、急に自分の姿が恥かしくなって、両手をひろげてふくれた腹を隠しました。腹には臍《へそ》がありませんでした。
「おれには臍がない。困ったなあ。臍のない銅像を見ると、皆が噴き出すだろうからな。」
雨はざあざあ降りしきって来ました。雨蛙は両手で腹を抱えたまま、ずぶ濡れになって腑抜《ふぬ》けがしたようにぼんやりとそこに立っていました。
「えらい降りだな。」蝸牛はどうかすると、滑り落ちそうな無花果の葉っぱをしっかりとつかまえました。「おい、お
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