烽フ音を聞いた主人の丿観は、わざと慌てふためいて外へ飛び出して来た。坑のなかには利休が馬鈴薯のように土だらけになって、尻餅をついていた。
「これは、これは。宗匠でいらっしゃいましたか。とんだ粗相をいたして、まことに相済みません。」
「丿観どの。老人《としより》はとかく脚もとが危うてな……」
 客としての心得は、主人の志を無駄にしないことだと思っていた利休も、案外その志と坑とが両つともあまりに深く、落込んだままどうすることも出来ないで、困りきっていた場合なので、丿観が上から出した手に縋って、やっとこなと起き上って坑の外へ這い出して来た。二人は顔を見合せて、からからと声をあげて笑った。
 客は早速湯殿に案内せられた。湯槽には新しい湯が溢れるばかりに沸いていた。茶の湯の大宗匠はそのなかに浸り、のんびりした気持になって頭のてっぺんや、頸窩《ぼんのくぼ》にへばりついた土を洗い落した。
 浴みが済むと、新しい卸し立ての衣裳が客を待っていた。利休は勧めらるるがままにそれを着けて、茶席に入った。
「すっかり生れかわったような気持だて。」
 利休は全くいい気持だった。こんな気持を味うことが出来るのも、自分が落し坑だと知って、わざとそれに陥《はま》り込んだからだと思った。これから後も落し坑には精々落ちた方がいいと思って、にやりとした。
 丿観は、客が上機嫌らしいのを見て、すっかり自分の計画が当ったのだと考えて、いい心持になっていた。それを見るにつけて利休は、主人の折角の志を無駄にしなかったことを信じて、一層満足に思った。
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   探幽と松平伊豆
     少年少女のために

 探幽は名画家の多い狩野家でも、とりわけ画才が秀れているので聞えていた人でした。
 この探幽があるとき松平伊豆守信綱に招かれて、その屋敷に遊んだことがありました。主人の信綱はその日の記念として、雲龍の図を探幽に求めました。
 雲龍の図だというので、墨汁は家来たちの手でたっぷりと用意せられました。探幽は画絹を前に、しばらくは構図の工夫に思い耽っていましたが、やがて考えが決ったと見えて、筆をとり上げようとしますと、そこへ次の間から信綱が興奮したらしい顔を現わしました。そしてまだ何一つ描き下してない画絹を見ると、
「何じゃ、まだ一つも画いてないのか。さてさて絵師というものは鈍なものじゃて。」
 わざと聞えよがしに言ったかと思うと、いきなり足の爪先でそこにあった硯を蹴飛ばして、そのまま次の間に姿を隠しました。墨汁は画絹は言うに及ばず、探幽の膝から胸のあたりまで飛び散りました。まるで気の狂った泥鼠が乱暴を働いた後のようでした。探幽はむっとしました。
「あまりといえば乱暴ななされ方だ。」
 真青に顔の色を変えて、そのまま立ち上って帰ろうとしました。それを見た松平家の家来たちは、てんでに言葉をつくして平謝りに謝りました。このまま探幽を帰しては、居合す家来たちの大きな手落となると聞いては、探幽もむげに我を通すわけには往きませんでした。彼はしぶしぶ座に帰って、また画絹の前に坐りました。
 伊豆守の無礼だけは、どうしても免すわけに往かぬと探幽は思いました。膝から胸のあたりに飛び散った生々しい墨汁の痕を見ると、彼は身内が燃えるように覚えました。このいらいらしい気持から遁れるには、湧き返る憤怒をそのまま、画絹へ投つけるより外にはありませんでした。探幽は顫える手に絵筆を取り上げて、画絹と掴み合うような意気込で、雲龍の図にとりかかりました。

 程なく画は描き上げられました。それはすばらしい出来でした。探幽はそれを見て、憤怒のまだ消え切らない口もとをへし曲げるようにして、ちらと微笑しました。先刻から探幽の恐しい筆使いを見て、どうなることかと気遣っていたらしい松平家の家来たちは、お互いに顔を見合せて、腹の底より感心したらしい溜息を洩しました。
 そこへ主人の信綱が、以前と打って変って慇懃なものごしで、にこにこしながら出て来ました。
「先刻はいかい失礼をいたした。気持に感激がないと、いい絵は出来難いものじゃと聞いたので、ついその……」
 探幽は初めて信綱が自分に無礼を働いたわけに気がつきました。それと同時に、知慧自慢の伊豆守がこの画の前に立って、誰彼の容赦なく、作者を怒らせて描かせた吾が趣向を語って聞かせるだろう、その得意らしい顔つきが、気になってなりませんでした。で、負けぬ気になって次のように言いました。
「素人衆は一途に感激のことを申されますが、画家にとって大切なのは感激よりも、その感激に手綱をつけて、引き締めて往く力でございます。この絵もそれを引き締めるのに大分骨が折れましたが、まあ、どうかこうか……」
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   人間というもの
     少年少女のために

     1

 むかし、支那に馮幼将という、竹の画がすぐれて上手な画家がありました。この画家がある人に頼まれて、その家の壁に得意の筆で五、六本の竹を描いたことがありました。
 画が出来上ったので、作者が墨に塗れた筆をもったまま壁の前に立って、満足そうにその出来ばえを眺めていますと、だしぬけに騒々しい羽音がして、三羽五羽ばかしの雀が、その肩越しにさっと飛んで来ました。そして先を争って若竹の枝にとまろうとして、幾度か画面にぶっつかっては落ち、ぶっつかっては落ち、終いには床に落ちたまま羽ばたきもせず、不思議そうに円《まる》い頭を傾《かし》げて、じっと考え込んでいました。
 また童二如という画家がありました。梅が好きで、梅を描くことにかけては、その頃の画家に誰ひとりこの人に肩を並べるものがありませんでした。
 あるとき、童二如が自分の書斎の壁に梅を描きました。すると、それが冬の寒いもなかだったにもかかわらず、五、六ぴきの蜜蜂が寒そうに羽をならして飛んで来ました。そして描かれた花の上にとまって、不思議そうにそこらを嗅ぎまわっていましたが、甘い匂いといっては、ただの一しずくも吸い取ることが出来ないのを知ると、
「何だ。画にかいた花だったのか。ひとを調弄《からか》うのも大概にするがいいや。」
とぶつぶつ呟きながら、ひどく腹を立てて飛び去りました。

     2

 ある日のこと、画家にあざむかれた雀の小坊主と蜜蜂とは、人間に立ち聴きせられないように、わざと木深い森の中に隠れて、何がな復讐《しかえし》の手段はないものかと、ひそひそ評議をこらしていました。
「人間って奴、何だってあんなにまやかし物が作りたいんだろうな。みんな神様の真似ごとじゃないか。」
 癇癪持の蜜蜂は、羽をならしながら憎々《にくにく》しそうに言いました。曩《さき》の日のことを思うと、今になってもまだ腹に据えかねるのでした。
「そうだよ。みんな神様の真似ごとさ。唯仕事がすこしばかりまずいだけなんだ。」
 第一の雀が片脚をあげて、毛深いぼんのくぼの附近《あたり》を掻きながら、こんなことを言いました。
「巧くもないくせに、何だってそんなことに手出しなぞするんだろうな。」
「小《ち》っちゃな神様になりたいからなんだよ。」第三の雀が貝殻のような嘴をすぼめて、皮肉な口をききました。「現におれ達をかついだあの二人の画かきだね。あいつらはおれ達の眼をうまくくらまかしたというので、たいした評判を取り、おかげであの画は途方もない値段である富豪《かねもち》の手に買い取られたそうだ。何が幸福《しあわせ》になるんだか、人間の世の中はわからないことだらけだよ。」
「そうだとも。そうだとも。」
 残りの雀は声を揃えて調子を合せました。
「ほんとうに忌々《いまいま》しいたらありゃしない。ひとの失敗《しくじり》を自分の幸福《しあわせ》にするなんて。今度出逢ったが最後、この剣でもって思いきりみなの復讐《しかえし》をしてやらなくっちゃ。」
 蜜蜂は黄ろい毛だらけの尻に隠していた短剣をそっと引っこ抜いて、得意そうに皆に見せびらかしました。剣は持主が手入れを怠けたせいか、古い留針《とめばり》のように尖端《さき》が少し錆びかかっていました。
「お前。まだ分ってないんだな。画を描くことの出来る手は、また生物《いきもの》を殺すことも出来る手だってことがさ。」第一の雀は蜜蜂の態度に軽い反感をもったらしく、わざと自分の不作法を見せつけるように、枝の上から白い糞《ふん》を飛ばしました。「お前、その剣でもって人間の首筋を刺すことが出来るかも知れんが、その代り、とても生きては帰れないんだぞ。」
「じゃ、どうすればいいんだ。復讐《しかえし》もしないで黙って待っていろというのか。」
 蜜蜂は腹立たしくて溜らないように叫びました。頭の触角と羽とが小刻みにぶるぶると顫えました。
「復讐《しかえし》は簡単だよ。これから人間の画かきどもが何を描こうとも、おれ達はわざと気づかないふりをして外《そ》っ方《ぽう》を向いているんだ。そうすれば、おれ達がいくらそそっかしいにしたって、以前のように騙かされようがないじゃないか。騙かされさえしなかったら、どんな高慢な画かきにしても、手前味噌の盛りようがないんだからな。」
「大きにそうかも知れんて。じゃ、そうと決めようじゃないか。」
「よかろう。忘れても人間に洩らすんじゃないよ。」
「これでやっと復讐《しかえし》が出来ようというもんだ。」
 皆は吾を忘れて悦び合っていました。すると、だしぬけに程近い草のなかから、
「へっ、復讐かい。それが。おめでたく出来てるな。」
と冷笑する声が聞えました。
 皆はびっくりして声のした方へ眼をやりました。日あたりのいい草の上で、今まで昼寝をしていたらしい一匹の黒猫が、起き上りざま背を円めて、大きな欠伸《あくび》をするのが眼につきました。
「いよう、黒外套《くろがいとう》の哲学者先生。お久しぶりですな。」剽軽者《ひょうきんもの》の一羽の雀は心安立《こころやすだて》と御機嫌とりとからこんな風に呼びかけました。「先生は唯今私達の仲間がみんなおめでたく出来てるようにおっしゃいましたね。」
「いったよ。確かにいった。実際そうなんだから仕方がない。」
 黒猫の眼は金色に輝きました。
「何がおめでたいんだか、そのわけを聞かしてもらおうじゃないか。」
 雀の二、三羽が、不平そうにそっと嘴を突らしました。
「望みならいって聞かそう。」黒猫は哲学者の冷静を強いて失うまいとするように、長い口髭を一本一本指でしごきながらいいました。「お前達は人間の描いたものには、もう一切目を藉《か》さない。そうすれば欺かれる心配がなくなるから、自然画の評判も立たなくなるわけだと思ってるらしいが、それがおめでたくて何だろう。画の評判ってものは、お前達が立てるのじゃなくて、ほんとうは世間のするしわざじゃないか。」
「世間。おれはまだ世間ってものを見たことがない。」
 第一の雀は不思議そうな顔をして、第二の雀をふりかえりました。
「世間ってのは、人間の仲間をひっくるめていう名前なんだよ。」黒外套の哲学者は、今更そんな講釈をするのは退屈至極だといわないばかりに大きなあくびをしました。
「人間を活《い》かすも殺すも、この世間の思わく一つによることなんだが、もともと人間って奴が妙な生れつきでね。多勢集まると、一人でいる時よりも品が落ちて、とかく愚《ばか》になりやすいんだ。だからお前達のようなもののしたことをも大袈裟に吹聴して、うっかり評判を立てるようなことにもなるんさ。」
「じゃ、その世間とやらを引き入れて、そいつに背《せな》を向けさせたらどうなんだ。」癇癪持の蜜蜂は、やけになって喚《わめ》きました。「どんな高慢ちきの画かきだって、ちっとは困るだろうて。」
「それが出来たら困るかも知れん。また困らぬかも知れん。なぜといって、人間の腹の中にはそれぞれ虫が潜《もぐ》っていて、こいつの頭《かぶり》のふりよう一つで、平気で世間を相手に気儘気随をおっ通したがる病《やまい》があるんだから。そうだ。まあ、病《やまい》だろうね。尤もそんな折には誰でもが極って持ち出したがる文句があるんだよ。
 ――今はわからないん
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