艸木虫魚
薄田泣菫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西瓜《すいか》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今日|蛤《はまぐり》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]っている。
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艸木虫魚目録

柚子
とうがらし
かまきり
蜜柑

蓑虫
松茸

さすらい蟹
糸瓜
茶の花
仙人と石
春の魔術
まんりょう
小鳥
桜鯛

海老
魚の憂鬱

草の汁
木の芽
物の味
食味通
徳富健次郎氏
芥川龍之介氏の事
哲人の晩年
盗まれぬように
女流音楽家
演説つかい
名前
返辞
慈善家
間違い
救済
良人改造
マッチの火

天下一の虚堂墨蹟
遺愛品
暗示
詩人の喧騒
樹木の不思議
蔬菜の味

老樹
台所のしめじ茸
客室の南瓜
秋が来た
秋の佗人
草の実のとりいれ
赤土の山と海と
糸瓜と向日葵
落梅の音

くろかわ
山茶花
魚の旅
潔癖

驢馬
遊び
古本と蔵書印
ある日の基督
老和尚とその弟子
名器を毀つ
利休と丿観
探幽と松平伊豆(少年少女のために)
人間というもの(少年少女のために)
肖像画(少年少女のために)
道風の見た雨蛙(少年少女のために)
[#改丁]

   柚子

 柚の木の梢高く柚子の実のかかっているのを見るときほど、秋のわびしさをしみじみと身に感ずるものはない。豊熟した胸のふくらみを林檎に、軽い憂鬱を柿に、清明を梨に、素朴を栗に授けた秋は、最後に残されたわびしさと苦笑とを柚子に与えている。苦笑はつよい酸味となり、わびしさは高い香気となり、この二つのほかには何物をももっていない柚子の実は、まったく貧しい秋の私生児ながら、一風変った秋の気質は、外のものよりもたっぷりと持ち伝えている。
 柚子は世間のすねものである。超絶哲学者の猫が、軒端で日向ぼこりをしながら、どんな思索にふけっていようと、また新聞記者の雀が、路次裏で見た小さな出来事をどんなに大げさに吹聴していようと、彼はそんなことには一向頓着しない。赤く熟しきった太陽が雑木林に落ちて往く夕ぐれ時、隣の柿の木の枝で浮気ものの渡り鳥がはしゃぎちらしているのを見ても、彼は苦笑しながら黙々として頭をふるに過ぎない。そこらの果樹園の林檎が、梨が、柿が、蜜柑が、一つ残さずとりつくされて、どちらをふり向いて見ても、枝に残っているものは自分ひとりしかないのを知っても、彼は依然として苦笑と沈黙とをつづけている。彼は自分の持っているのは、さびしい「わび」の味いで、この味いがあまり世間受けのしないことは、柚子自らもよく知っているのである。
 むかし、千利休が飛喜百翁の茶会で西瓜《すいか》をよばれたことがあった。西瓜には砂糖がかけてあった。利休は砂糖のないところだけを食べた。そして家に帰ると、門人たちにむかって、
「百翁はもっとものがわかっている男だと思っていたのに、案外そうでもなかった。今日西瓜をふるまうのに、わざわざ砂糖をふりかけていたが、西瓜には西瓜の味があるものを、つまらぬことをしたものだ。」
といって笑ったそうだ。もののほんとうの味を味おうとするのが茶人の心がけだとすると、枝に残って朝夕の冷気に苦笑する柚子が、彼等の手につまれて柚味噌となるに何の不思議はない。「わび」を求めてやまない彼等に、こんな香の高い「わび」はないはずであるから。
 徳川八代将軍吉宗の頃、原田順阿弥という茶人があった。あるとき、老中松平左近将監の茶会に招かれて、懐石に柚味噌をふるまわれたことがあった。その後幾日か経て、順阿弥は将監にあいさつをした。
「こないだの御味噌は、風味も格別にいただきました。さすが御庭のもぎ立てはちがったものだと存じました。」
「庭のもぎ立て。」将監は不審そうにいった。「なぜそんなことがわかった。」
 順阿弥は得意そうに微笑した。
「外でもございません。お路次へ上りましたときと、下りましたときと、お庭の柚子の数がちがっておりましたものですから。」
 それを聞くと、将監は
「油断もすきも出来ない。」
といって、にが笑いしたそうである。
 ものごとに細かい用意があるのはいいものだが、路次の柚子を数えるなどは、柚味噌のわびしい風味をたのしむ人の振舞とも覚えない。こんなことを得意とするようでは、いつかは他人のふところ加減をも読みかねなくなる。
[#改ページ]

   とうがらし

 青紫蘇、ねぎ、春菊、茗荷《みょうが》、菜っ葉――そういったもののみが取り残されて、申し合せたように青い葉の色で畑の健康を維持しているなかに、一株の唐辛が交って、火のしずくのような赤い実を点在させているのが眼についた。
「舞台では、なるべく赤い花をつかわないようにする。――これは脚本家が何よりも先に心がけなければならぬことである。強い赤の色は、どうかすると観客の注意を乱していけないから。」
 これは舞台監督として聞えたダヴィッド・ベラスコの言葉であるが、この監督が折角そういって気をつけているのにもかかわらず、唐辛は平気でトルコ人のような赤い帽子を被って舞台に立っているので、青一式の周囲の平和が、お蔭でどのくらい引っかきまわされているかしれない。
 唐辛は怒っているのだ。
 唐辛よ。お前は何をそんなに怒っているのか。もっと平和な気持になって、御近所の衆と一緒に静な秋を楽しんだらどうだろう。トルコ人の被りそうなそんな赤帽子は腋の下にでもそっとおし隠したらいいではないか。
 唐辛はむっとしている。
 唐辛は皮肉家だ。生れつきするどい皮肉家だ。彼は自分にさわるものには、誰にでも容捨なく持前の皮肉を投げつける。彼には「わさび」や「からし」のようなユウモリスト達が、相手に辛い皮肉を味わせながらも、同時にまた眼がしらに涙を浮べて笑いころげさせる滑稽味が欠けている。彼はどこまでも単純だ。感情が激越だ。単純で感情が激越なればこそ、皮肉家なのである。
 自然界のあらゆるものは性格をもっている。その性格にはそれぞれ変化があり、打開がある。たとえば柿や栗などは、初めのうちは渋いが、終いには甘くなる。蜜柑や杏のようなものは、初めのうちは酸っぱいが、終いには甘くなる。これらはそれぞれの性格の成長であり、飛躍である。悔悟であり、新生である。そんななかにたったひとり唐辛のみは、最初から終りまで同じ「からさ」の持ち続けである。何の変化もなく悔悟もない一本調子の生活ほど、気をいらだたせるものはない。日を重ねるにつれて唐辛の癇癪がいよいよ手におえなくなり、その皮肉がますますするどくなるのに何の不思議があろう。

 かくして唐辛は、いつもあんなにぷんぷん怒りどおしに怒っているのである。そして偉大なる太陽もそれをどうすることが出来ないのだ。

 今はもう三十年のむかしにもなろう。私が二十歳足らずの頃、早稲田鶴巻町のある下宿屋に友達を訪ねたことがあった。狭い廊下を通りかかると、障子を明けっ放しにした薄ぎたない部屋に、一人の老人が酒を飲みながら、声高に孟子を朗読しているのがあった。机の上には、小皿に唐辛を盛ったのが置いてあって、老人は時々それをつまんで、鼠のように歯音をたててかじっていた。
「誰かね、あの老人は。」
「あれが田中正造だよ。鉱毒事件で名高い……」
 私はそれを聞いた瞬間、あの爺さんのはげしい癇癪を、唐辛のせいのようにも思ったことがあった。
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   かまきり

 秋草のなかにどかりと腰をおろして、両足を前へ投げ出したまま日向ぼっこをしていると、かさこそと草の葉を伝って、私の膝の上に這いのぼって来るものがある。見るとかまきりだ。かまきりはたった今生捕ったばかしの小さな赤とんぼを、大事そうに両手でもって胸へ抱え込んでいる。
 哀れな犠牲だ。私はかろく指さきでその赤とんぼの羽に触ってみた。あわよくば助けてやりたかったのだ。かまきりは立ちとまった。要らぬおせっかいを癪にさえたらしく、胸をそらして身構えた。私はまたとんぼの尻尾に触ろうとした。それを見たかまきりは、一足しさって高く右手の鎌をふりあげた。私はまたとんぼの頭を小突いた。その一刹那かまきりは赤とんぼをふり捨てて、両手の鎌をふりかざして手向って来た。私は指さきでその草色の背を押えた。処女《きむすめ》が他人に肌を弄られたような無気味さと恥辱とに身をふるわしながら、かまきりはいきなり私の指に噛みつこうとした。私はかろくそれを弾き飛ばした。よろよろとよろけた虫は、両脚をつよくしっかりと踏みはだかって、やっと立ち直ったかと思うと、すぐまた鎌を尖らして来た。
「なかなかしぶとい奴だな。それじゃ、こうしてくれる……」
 私はすきを見て、相手の細っこい首根っこを両指につまみあげようとして、その瞬間自分が今争っているのは、草色の背をした小さな秋の虫ではなく、私自身の胸の奥に巣くっている反抗心そのものであるような気がしたので、そのままそっと指を引っこめてしまった。
「反抗」の精霊よ。押えれば頭をもち上げたがる「反動」の小さな悪魔よ。澄みきった清明な秋の心の中にすみながら、お前は生れおちるとから死ぬるまで、一瞬の間も反抗と争闘との志を捨てようとはしない……
 馬を見よ。馬はあの大きな図体をしながら、人間にはどこまでも従順で、いいつけられたことにはすなおに服従している。ある学者の説明によると、馬があんなに人間に従順なのは、ひとえにその眼の構造によることで、馬の眼は人間の眼よりも二十二パアセントだけものを大きく見せるように出来ているので、五尺五寸の人間は馬の眼には六尺七寸以上に映ることになる。それゆえにこそ馬は人間におとなしいので、もしか馬が人間のほんとうの大きさを知ることが出来て、芝居の「馬」のように自分の背で反身になっているものが、必ずしも主役の一人とは限らないことを知ったなら、馬は主人を鞍の上からゆすぶり落して、足蹴にかけまいものでもないということだ。馬にこんな不思議な眼を授けた自然は、かまきりにはかなり鋭利な二つの鎌と一緒に、しぶとい反抗心を与えてくれた。これあるがゆえに、お前はあらゆる虫と戦い、草の葉と戦い、風と戦い、お前の母である清明な秋と戦い、はては大胆にも偉大なる太陽に向ってすら戦をいどもうとするのだ。百舌鳥もお前に似て喧嘩ずきな鳥だが、あの鳥の慾望は征服の心地よさにあるので、征服出来そうにもない相手には、滅多に争いを仕かけようとはしない。それに較べると、お前は何という向う見ずな反逆気《むほんぎ》だろう。あの太陽に向って喧嘩をしかけるとは。それにしてはお前の身体はあまりにひ弱すぎる。
「お前は結局自分の反逆気に焼かれて死ぬより外はないのだ。」
 私が小声でそっと耳打ちしようとすると、かまきりはもうそこらにいなくなっていた。それでも構わなかった。私は自分の胸に巣くっている、今一つのかまきりに呼びかけることが出来たから。
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   蜜柑

 黄金色の蜜柑がそろそろ市に出るころになった。

 むかし、善光という禅僧があった。あるとき托鉢行脚に出て紀州に入ったことがあった。ちょうど秋末のことで、そこらの蜜柑山には、黄金色の実が枝もたわむばかりに鈴なりになっていた。山の持主は蜜柑取に忙しいらしく、こんもり繁った樹のかげからは、ときおり陽気な歌が聞えていた。
 蜜柑山に沿うた小路をのぼりかかった善光は、ふと立ちとまった。頭の上には大粒の蜜柑のいくつかがぶら下っていた。善光は不思議なものを見つけたように、眼を上げてその枝を見つめた。そしてときどきいかにも不審に堪えないように小首をかしげては、何やら口のなかで独言をいっているらしかった。
 しばらくすると、程近い樹のかげから一人の農夫がのっそりと出て来た。
「坊さん。あんたそんなところで何してはりまんね。」
 善光は手をあげて頭の上の枝を指ざした。
「あすこに変なものがぶら下っている。あれは何というものかしら。」
「変なもの。どれ。どこに。」
 農
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