フ肩に盛り上った肉塊《ししむら》を撫で廻し、その臍のあたりを小突いてみたくなることがよくある。私が南瓜を愛するのはそれと同じ気持で、瘤のようにでこぼこした、または縮緬皺の細かい肉つきの手触りと色つやとに、その生みの親である太陽と土との、怪奇な意匠と秀れた仕上げとを味いたいからに外ならぬ。実際南瓜こそは、情熱に焼け爛れた太陽と黒土との間に生れた、鼻っ欠けの私生児に過ぎないかも知れないが、この私生児は、日の熱と土の力とを両つとも立派に持ち伝えた、碌でなしのえらものである。
2
円い瓜、長目な瓜、細長い瓜、またはでこぼこの瓜――それがどんな形であろうと、私が瓜の実を好む気持に少しも変りはない。高麗焼の陶器に、朝鮮民族の呑気な、しかし、また本質的な線の力強さを味い得るように、私たちは瓜の実の持ついろいろな線や、恰好や、肌触りに、見かけは間伸びがしたようで、どこかにちゃんと締め括りがあり、大まかなようで、実は細かい用意があるのに驚かされることがよくある。
瓜のおもしろ味は、蔓や巻髪を切離してはならない。最も力の籠っているのは、蔓と瓜の実とをつなぐ臍《ほぞ》の柄《え》で、生《な》り物全体の重みを支えなければならぬだけに、秀れた茶壺の捻り返しを見るような、力と鮮やかさとを味わされることが多い。この臍を起点として、瓜の肌に沿うて流れる輪廓の線は、真桑瓜や雀瓜のように、こぢんまりと恰好よく纏っているのもあるが、どうかすると、長糸瓜のように、線と線とが互に平行したまま、無謀にも七尺あまりも走った後、やっと思い出したように、いくらか尻膨れになってつづまりをつけるのや、または冬瓜や西瓜のように、図外れに大きな弧線を描いて、どうにも始末におえなくなっているのがある。そのなげやりに近いまでの胆の太さは、芸術家と実行者とを、愛と放棄とを、両つながらその意図に有っている自然翁でなくては、とても出来ない放れ業である。
いつだったか、元末の画家呂敬甫の『瓜虫図』の写しを見たことがあった。長い蔓に生った大きな青い瓜に、火の雫のような赤蜻蛉を配ったものだった。また小栗宗湛の『青瓜図』をも見たことがあった。蔓につながった二つの大きな瓜を横たえ、それに二疋の螳螂を添えたもので、瓜の大きさと葉の緑とが、いまだに記憶に残っている。二つの絵に共通の点は、こうした自然物に対する深い愛と、大きな瓜に小さな昆虫を配したところにあるが、軽い羽をもった赤蜻蛉も、反抗心に燃えている螳螂も、どっかりと横に寝そべったあの青瓜の大頭《おおあたま》の前に出ては、何となく気圧《けお》されがちに見えるのもおもしろいと思った。
3
夜半亭蕪村の描いた真桑瓜と西瓜の化物を見たことがあった。すべての想像に画のようなはっきりとした輪廓をもたせないではおかなかったこの芸術家は、絶えず幻想を娯み、また幻想に悩まされていたのではあるまいかと疑われるほど、妖怪変化について多くの記述と絵画とを遺している。私が見たのもその一つで、遠州見付の夜啼婆、鎌倉若宮八幡の銀杏の樹の化物などと一所に描かれたものだった。山城駒のわたりの真桑瓜の化物が、左手に草履を掴んで、勢よく駆け出そうとする奴姿は、朝露と土とに塗れている軽快な真桑瓜の精として上出来だった。が、それよりもいいと思ったのは、大阪木津の西瓜の化物で、二本差で気取ってはいるが、大きな頭の重みで、俯向き加減にそろそろと歩いている姿には、覚えず心をひかれた。図はずれに大きくなり過ぎた頭の重みから、絶えず生命の悩ましさと危さとを感じて、慢性の脳神経衰弱症にとりつかれている、この幼馴染の青瓜を思うと、私は実際気の毒でならない。
4
出来の悪い冬瓜の末生《うらなり》を見ると、じき思い出されるのは、風羅念仏の俳人惟然坊の頭である。この俳人は生れつき頭が柔かいので、夜寝るのに枕の堅いのが大嫌いであった。ある時師の無名庵に泊って、木枕にぐるぐる帯を巻きつけていたのを、芭蕉に見とがめられて、
「お前は頭に奢を持っている男だな。貧乏したのは、そのせいかもしれないぞ。」
と冷かされたのは名高い話だ。私は襤褸屑《ぼろくず》のように破けた葉っぱを纏った、貧乏な、頭痛持らしく額に筋を立てている青瓜を見る度に、あの蝋色の胡粉を散らした歪形《いびつがた》な頭の下に、せめて枕だけは柔かいのをあてがってやりたく思うことがよくある。
5
太閤記を見ると、秀吉が朝鮮征伐のために、陣を進めた九州の旅先で、異形《いぎょう》の仮装をして、瓜売になったことが載っている。広く仕切った瓜畑に、粗末な茶店など設け、太閤自ら家康、利家といったような輩と一緒に瓜商人に装って、
「瓜はどうかな。味のよい瓜を買うてたもれ。」
と声まで似せて売り歩いたものだ。すると、旅僧になっていた織田有楽斎が呼びとめた。
「もし、もし。瓜売どの。老年の修行者に瓜をお施し下され。」
秀吉が自分の荷のなかから、瓜を二つ取出して、その手に載せてやると、有楽斎はそれを見てちょっと眉をしかめた。
「折角じゃが、これは熟れていぬようじゃ。もっと甘そうなのを……。」
と押が強く所望するおかしさに、居合す人達は皆笑いくずれたということだ。闊達な秀吉の気質と真桑瓜の持味とは、うまく調和しそうに思われる。
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秋が来た
また秋がやって来た。
空を見よ。澄みきった桔梗色の美しさ。一雨さっと降り上った後の初夏の青磁色の空の新鮮さもさることながら、大空そのものの底の知られない深さと透明さとは、この頃ならでは仰ぎ見るべくもない。私は建詰った市街の屋根と屋根との間から、ふと紫色の空を見つけて、
「おう、秋だ。」
と思わずそこに立停ったことがよくある。何という清澄さであろう。すぐれた哲人の観心の生涯を他にしては、この世でまたと見られない味である。桔梗色に澄み切ったままでもよいが、ときおり白雲の一つ二つが、掠めたように静かに行き過ぎるのも悪くはない。哲人が観心の生涯にも、どうかすると追懐のちぎれ雲が影を落さないものとも限らない。雲はやがて行き過ぎて、いつの間にかその姿を消してしまう。残るものは桔梗色の深い清澄さそのものである。偶に雲の代りに小鳥の影が矢のように空を横切る事がある。陶工柿右衛門の眼は、すばしこくこれを捉えて、その大皿の円窓に、こうした小鳥の可愛らしい姿を描き残している。
山の寂黙《じゃくもく》そのものを味うにも、この頃が一番よい。感じ易い木の葉はもうそろそろ散りかかって、透けた木の間から洩れ落ちる昼過ぎの陽の柔かさ。あたりのものかげから冷え冷えと流れて来る山気《さんき》をかき乱すともないつつましやかさを背に感じながら、落葉の径をそことしもなく辿っていると、ふとだしぬけに生きた山の匂をまざまざと鼻さきに嗅ぎつけることがよくある。ちょうど古寺に来て、薄暗い方丈で老和尚と差向いに坐ったとき、黙りこくった和尚その人の肌の匂を感じた折のように、こうした場合には何一つ言葉やもの音を聞かないのが、かえって味いが深いものだ。
畑には果実が枝も撓むばかりに房々と実のっている。憂鬱な梨、葡萄、女の乳房のように※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ぎ口から絶えず乳を滴らす無花果、蜜柑、紅玉のような柿。――支那花鳥画の名手徐熙の孫で、花卉を描くのに初めて没骨法を用いたというので知られている徐崇嗣は、豊熟した果実の枝を離れて地に墜つる状を描いて、その情趣を髣髴せしめたということだが、私は果実の大地に墜ちる音を聞くのが好きだ。人気もない林の小径に立って、笑み割れた落栗の実が、一つ二つ枯葉の上に落ちるのを聞くのは、秋に好ましいものの一つである。
日が暮れると、青白い月が顔を出して来る。安住の宮を求めて、東より西へと絶えずさすらい歩く天上の巡礼者が、足音も立てず静かに森の上に立つと、そこらのありとあらゆるものは、行いすました尼の前に出たように、しっとりと涙の露に濡れながら、昼間見て来たことをも一度心のうちに繰り返し、繰り返して、それぞれ瞑想に耽るのである。
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秋の佗人
二日二夜の間びしょびしょと降りつづけた秋雨は、三日目の朝になって、やっと霽《は》れあがった。樹々の葉からは、風もないのに雨のしずくがはらはらとこぼれかかった。石灯籠の下にある草柘植《くさつげ》を少し離れて、名も知らない小さな菌《きのこ》が二かたまり生えているのが眼についた。昨日の夕方、雨の庭を眺めたときには、それらしい影も形も見えなかったのに……。
京都の三条大橋の東に檀王法林寺というお寺がある。そこの境内から川端へ抜けるところに赤門があり、夕方になると閉されるが、いつ締まるのか誰もそれを見かけたものがない。川向うの上木屋町あたりで若い妓《おんな》たちが、この門の締まるのを見ると、有卦に入るといって、欄干にもたれてじっとそれを待っているが、見ているときには締まらないで、ちょっと眼を外《そ》っ方《ぽう》に逸らした時に、ちゃんと閉じられているということだ。
ちょうどそのように、誰の眼にも気づかれないうちに、菌はひょっこりと地べたに飛出している。うるさい人間の「おせっかい」と「眼」との隙を見つけて、そこにほっと呼吸をついているといったように。
このわび人たちは、仲間にはぐれないように互に肩をくっつけ合い、蓋《かさ》を傾け合って、ひそひそ声で話している。時偶庭木の葉を洩れて、日光がちらちらと零《こぼ》れかかると、菌たちはとんでもない邪魔ものに闖入せられたかのように、襟もとを顫わせて嫌がっている。わび人はわび人らしく、じめじめした湿地と薄暗がりとを娯しんでいるのだ。
そこらに着飾って立つ花のように、縞羅紗のズボンをはき、腰に剣をさした若い騎士の蜂が、ちょくちょく訪ねて来るのでもない。誰一人その存在を気づかず、偶にそれと知っても、その微かな呼吸に籠る激しい「毒」を恐れて、それに近づこうともしない。こうして与えられた「孤独」を守って、彼らはそこに自分たちの生命をいたわり、成長させている。
いたずら盛りの子供が、幾度か棒切を持って、この小さなわび人たちを虐げようとしたことがあった。その都度私は彼をたしなめて、その「孤独」を庇ってやった。
二、三日してまた雨が降った。雨の絶間にふと気づくと、菌はもう見えなかった。揃いの着付に揃いの蓋を被っていたこのわび人たちの姿は、どこにも見られなかった。
彼らは誰にも気づかれないで来たように、誰にも気づかれないで去ったのである。
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草の実のとりいれ
収穫《とりいれ》といえば、すぐに晩秋の野における農夫の労働生活が思われる。これは激しい汗みずくな、しかしまた楽みにも充ちたものである。草の実の採入れは、それとは趣の異った、暢気な、間のぬけた、ほんのちょっとした気慰みの仕事に過ぎないが、それでも、そのなかに閑寂そのものの味が味われないこともない。
秋の彼岸前後になると、懐妊した女の乳のように、おしろい花の実が黒く色づき初める。それを撮み取ろうとすると、円い実は小さな生物か何ぞのように、こざかしく指の間を潜りぬけて、ころころと地べたに転がり落ちる。人間の採集がほんの気紛れからで、あまりあてにはならない事をよく知っている草の実は、こうして人間のおせっかいから遁れて、われとわが種子を保護するのである。それを思うと、落葉の下、土くれの蔭までもかき分けて、落ちたおしろいの実の行方をさがすなどすまじき事のように思う。
おしろいの実を掌に取り集めると、誰でもがその一つ二つを爪で割ってみたくなるものだ。中には女が化粧につかうおしろいのような白い粉が一ぱいにつまっている。小供の時もよくそうして割ってみた。大人になって後もなお時々割ってみる事がある。自然はいかさまな小商人《こあきんど》のように、中味を詰め替える事をしないので、今もむかしのものと少しも変らない、正真まざりっ気なしのおしろいの粉が、ほろほろとこぼれかかる。この小さな草の実にこうした誘
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