の教科書の餘白といふ餘白を、すつかり受持教師の百面相で埋めてゐたほどの人でした。私が十八歳の春上京して暫く厄介になつてゐましたのは、牛込宮比町の聞鷄書院といつた漢學の私塾で、塾の先生は山田方谷の門弟宮内鹿川といつた王學の老先生でした。私は鹿子木孟郎氏などと一緒に、そこにおいて貰つて、夜は傳習録の講義などを聞いてゐましたが、その頃は漢學が一向振はなかつたものですから、聞鷄書院の門をくゞる若い學生はたまにしかありません。それには清雅な氣品を備へた宮内先生も、流石に弱られて、ある日のこと、
『どうも學生の足が遠くて困るから、一つ英漢數教授といふことに、看板を塗り替へようと思ふ。ついては英語と數學を教はりに來る學生があつたら、そこを君一つうまくやつてはくれまいか。』
と、私に相談がありましたので、私も
『先生のお役に立つことなら、どうにかしてみませう。』
とお引請して、その日からあわてゝ肩揚を下したことがありました。
英漢數教授の利目は覿面で、その看板が揚がると、三四名の學生がどやどやとはいつて來ました。私はそれに英語と數學とを教へました。ある日のこと、その學生の一人が『若先生………』と
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