題に、長短各種の作を取り交ぜた十頁ほどの長さのものでした。その多くは七五調で、なかで八六調十四行を一つに取纏めた絶句といふのが五六篇ありました。この絶句は私が前からキイツや、ロゼチや、ワーヅワースや、古くはペトラルカなどの試みたソネツトの眞珠のやうな美しい光に耽醉して居りまして、どうかしてこの詩形をわが詩壇にも移してみたいものだと思つて試みたものでした。なぜ八六調を選んだかといふことについては、どう考へても、今思ひ當りません。詩は仕合せと好評でした。私の門出は、多くの詩人に較べて寧ろ幸先のよい方でした。私はどういふ性分か、今でも惡口を云はれるよりは、譽められる方が好きですが、この性分はその頃からあつたものと見えて、すつかりいゝ氣持になりました。そして引續きぐんぐん詩を作つて、殆んど毎號のやうに『新著月刊』に寄せました。その多くは暮笛集に輯めてあります。
 私は明治三十年の春、徴兵檢査を受けるために、東京を發つて故郷の備中に歸りましたが、暮笛集に輯められた『木曾川』『琵琶湖畔にたちて』『加古河をすぎて』『楫保川にて』『關山曲』などは、その途中の作でした。
 私は郷里に歸つてから、病氣で三
前へ 次へ
全21ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング