年ほどぶら/\してゐました。三十二年の夏頃、大阪の書肆文淵堂の主人で、俳名春草といふ金尾種次郎氏が、その頃大阪で『造士新聞』といふ文藝新聞を編輯發行してゐた私の友人平尾不孤氏を通じて、私の詩集を發行させてくれといつて來ました。で、承諾して、その秋出版したのが暮笛集で、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫は赤松麟作、丹羽默仙二氏が描いてくれました。二氏は文淵堂主人の友人で、その當時※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫界の流行であつた中村不折氏の畫風の影響をうけたやうな※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫でしたから、俳畫めいてゐて、私の詩の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫としては呼吸が合はぬ憾があつたやうでした。集の體裁は、四六を横に綴ぢた、何となく尺八の譜でも見るやうな氣分が無いでもありませんでしたが、それでも中味は凝つた二度刷で、從來安物の講談本しか見られなかつた大阪の出版界では、どちらかといへば、出來のいい出版物でした。
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