へ石橋を架けようとして、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、葛城の女神が容貌のみにくいのを他にみられるのを恥ぢて、晝間出合はなかつたので、結縛したといふ傳説に因いて、作意を構へたものです。これを作る時には、無論アイスヒユロスの『プロメシユウス結縛』を想ひ浮べずには居られませんでした。この一篇は、後篇『解脱葛城の神』を俟つて、初めて完成するものなのですが、『解脱葛城の神』は未だ腹案としてのみ殘つて居ります。
『子守唄』は、明治四十一年頃の作です。クリスチナ・ロゼチの『しんぐ・さんぐ』を讀んで、こんなのを作つてみたらと思つて試みたものです。その當時はまだ昨今大流行の童謠といふ言葉はなかつたやうです。一つ一つの唄に、中澤弘光氏の極彩色の木版畫を入れて出版する筈で、版が略ぼ出來上つた頃、出版元が失敗したため、その儘となつてしまひました。その後名越國三郎氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫で、友人深江彦一氏の編輯してゐた『郊外生活』といふ雜誌に載せましたのを、短いお伽話と一緒に取纏めて、大正六年十二月冨山房から出版しました。
顧れば、私は詩の國へ旅立
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