Mルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺《ゆ》り越した一握《ひとにぎ》りの髪が軽《かろ》くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真《まこ》との道に入りたもう心はなきか」と問う。女|屹《きっ》として「まこととは吾と吾|夫《おっと》の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後《あと》ならば誘《さそ》うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹《くぼ》んだ、煤色《すすいろ》の、背の低い首斬り役が重た気《げ》に斧をエイと取り直す。余の洋袴《ズボン》の膝に二三点の血が迸《ほとば》しると思ったら、すべての光景が忽然《こつぜん》と消え失《う》せた。
 あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化《ば》かされたような顔をして茫然《ぼうぜん》と塔を出る。帰り道にまた鐘塔《しゅとう》の下を通ったら高い窓からガイフォークスが稲妻《いなずま》のような顔をちょっと出した。「今一時間早か
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