チたら……。この三本のマッチが役に立たなかったのは実に残念である」と云う声さえ聞えた。自分ながら少々気が変だと思ってそこそこに塔を出る。塔橋を渡って後《うし》ろを顧《かえり》みたら、北の国の例かこの日もいつのまにやら雨となっていた。糠粒《ぬかつぶ》を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵《こうじん》と煤煙《ばいえん》を溶《と》かして濛々《もうもう》と天地を鎖《とざ》す裏《うち》に地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。
 無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉《からす》が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心|大《おおい》に驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打《ぶ》ち壊《こ》わされてしまった。余はまた主人に壁の題辞の事を話すと、主人は無造作《むぞうさ》に「ええあの落書《らくがき》ですか、つまらない事をしたもんで、せ
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