たたず》んでいる。ふと気がついて見ると傍《そば》に先刻《さっき》鴉《からす》に麺麭《パン》をやりたいと云った男の子が立っている。例の怪しい女ももとのごとくついている。男の子が壁を見て「あそこに犬がかいてある」と驚いたように云う。女は例のごとく過去の権化《ごんげ》と云うべきほどの屹《きっ》とした口調《くちょう》で「犬ではありません。左りが熊、右が獅子《しし》でこれはダッドレー家《け》の紋章です」と答える。実のところ余も犬か豚だと思っていたのであるから、今この女の説明を聞いてますます不思議な女だと思う。そう云えば今ダッドレーと云ったときその言葉の内に何となく力が籠《こも》って、あたかも己《おの》れの家名でも名乗《なの》ったごとくに感ぜらるる。余は息を凝《こ》らして両人《ふたり》を注視する。女はなお説明をつづける。「この紋章を刻《きざ》んだ人はジョン・ダッドレーです」あたかもジョンは自分の兄弟のごとき語調である。「ジョンには四人の兄弟があって、その兄弟が、熊と獅子の周囲《まわり》に刻みつけられてある草花でちゃんと分ります」見るとなるほど四通《よとお》りの花だか葉だかが油絵の枠《わく》のように
前へ 次へ
全42ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング