チと出る。磨ぎ手は声を張り揚《あ》げて歌い出す。
切れぬはずだよ女の頸《くび》は恋の恨《うら》みで刃が折れる。
シュシュシュと鳴る音のほかには聴えるものもない。カンテラの光りが風に煽《あお》られて磨ぎ手の右の頬を射《い》る。煤《すす》の上に朱を流したようだ。「あすは誰の番かな」とややありて髯が質問する。「あすは例の婆様《ばあさま》の番さ」と平気に答える。
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生える白髪《しらが》を浮気《うわき》が染める、骨を斬られりゃ血が染める。
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と高調子《たかぢょうし》に歌う。シュシュシュと轆轤《ろくろ》が回《ま》わる、ピチピチと火花が出る。「アハハハもう善《よ》かろう」と斧を振り翳《かざ》して灯影《ほかげ》に刃《は》を見る。「婆様《ばあさま》ぎりか、ほかに誰もいないか」と髯がまた問をかける。「それから例のがやられる」「気の毒な、もうやるか、可愛相《かわいそう》にのう」といえば、「気の毒じゃが仕方がないわ」と真黒な天井を見て嘯《うそぶ》く。
たちまち窖《あな》も首斬りもカンテラも一度に消えて余はボーシャン塔の真中《まんなか》に茫然《ぼうぜん》と佇《
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