る。
こんなものを書く人の心の中《うち》はどのようであったろうと想像して見る。およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない。意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体《からだ》は目に見えぬ縄で縛《しば》られて動きのとれぬほどの苦しみはない。生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。この壁の周囲をかくまでに塗抹《とまつ》した人々は皆この死よりも辛《つら》い苦痛を甞《な》めたのである。忍ばるる限り堪《た》えらるる限りはこの苦痛と戦った末、いても起《た》ってもたまらなくなった時、始めて釘《くぎ》の折《おれ》や鋭どき爪を利用して無事の内に仕事を求め、太平の裏《うち》に不平を洩《も》らし、平地の上に波瀾を画いたものであろう。彼らが題せる一字一画は、号泣《ごうきゅう》、涕涙《ているい》、その他すべて自然の許す限りの排悶的《はいもんてき》手段を尽したる後《のち》なお飽《あ》く事を知らざる本能の要求に余儀なくせられたる結果であろう。
また想像して見
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