る。生れて来た以上は、生きねばならぬ。あえて死を怖るるとは云わず、ただ生きねばならぬ。生きねばならぬと云うは耶蘇孔子《ヤソこうし》以前の道で、また耶蘇孔子以後の道である。何の理窟《りくつ》も入らぬ、ただ生きたいから生きねばならぬのである。すべての人は生きねばならぬ。この獄に繋《つな》がれたる人もまたこの大道に従って生きねばならなかった。同時に彼らは死ぬべき運命を眼前に控《ひか》えておった。いかにせば生き延びらるるだろうかとは時々刻々彼らの胸裏《きょうり》に起る疑問であった。ひとたびこの室《へや》に入《い》るものは必ず死ぬ。生きて天日を再び見たものは千人に一人《ひとり》しかない。彼らは遅かれ早かれ死なねばならぬ。されど古今に亘《わた》る大真理は彼らに誨《おし》えて生きよと云う、飽《あ》くまでも生きよと云う。彼らはやむをえず彼らの爪を磨《と》いだ。尖《と》がれる爪の先をもって堅き壁の上に一と書いた。一をかける後《のち》も真理は古《いにし》えのごとく生きよと囁《ささや》く、飽くまでも生きよと囁く。彼らは剥《は》がれたる爪の癒《い》ゆるを待って再び二とかいた。斧《おの》の刃《は》に肉飛び骨|摧
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