はせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入《い》る。
 倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸《ひさん》の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立《こんりゅう》にかかるこの三層塔の一階室に入《い》るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨《いこん》を結晶したる無数の紀念《きねん》を周囲の壁上に認むるであろう。すべての怨《うらみ》、すべての憤《いきどおり》、すべての憂《うれい》と悲《かなし》みとはこの怨《えん》、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰藉《いしゃ》と共に九十一種の題辞となって今になお観《み》る者の心を寒からしめている。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業《じょうごう》とを天地の間に刻《きざ》みつけたる人は、過去という底なし穴に葬られて、空しき文字《もんじ》のみいつまでも娑婆《しゃば》の光りを見る。彼らは強いて自《みずか》らを愚弄《ぐろう》するにあらずやと怪しまれる。世に反語《はんご》というがある。白というて黒を意味し、小《しょう》と唱《と
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