る。翼《つばさ》をすくめて黒い嘴《くちばし》をとがらせて人を見る。百年|碧血《へきけつ》の恨《うらみ》が凝《こ》って化鳥《けちょう》の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡《にれ》の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍《そば》に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺《なが》めている。希臘風《ギリシャふう》の鼻と、珠《たま》を溶《と》いたようにうるわしい目と、真白な頸筋《くびすじ》を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉《からす》が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒《さ》むそうだから、麺麭《パン》をやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫《まつげ》の奥に漾《ただよ》うているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独《ひと》りで考えているかと思わるるくらい澄《すま》している。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁《いんねん》でもあり
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