人《にょにん》の頼み引き受けぬ君はつれなし」と云う。
男は鎖りを指の先に巻きつけて思案の体《てい》である。かいつぶり[#「かいつぶり」に傍点]はふいと沈む。ややありていう「牢守《ろうも》りは牢の掟《おきて》を破りがたし。御子《みこ》らは変る事なく、すこやかに月日を過させたもう。心安く覚《おぼ》して帰りたまえ」と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷石の上に落ちて鏘然《そうぜん》と鳴る。
「いかにしても逢う事は叶《かな》わずや」と女が尋《たず》ねる。
「御気の毒なれど」と牢守《ろうもり》が云い放つ。
「黒き塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」と云いながら女はさめざめと泣く。
舞台がまた変る。
丈《たけ》の高い黒装束《くろしょうぞく》の影が一つ中庭の隅にあらわれる。苔《こけ》寒き石壁の中《うち》からスーと抜け出たように思われた。夜と霧との境に立って朦朧《もうろう》とあたりを見廻す。しばらくすると同じ黒装束の影がまた一つ陰の底から湧《わ》いて出る。櫓《やぐら》の角に高くかかる星影を仰いで「日は暮れた」と背《せ》の高いのが云う。「昼の世界に顔は出せぬ」と一人が答える。「人殺しも多く
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