」と兄が独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやく。弟は「母様《ははさま》に逢《あ》いたい」とのみ云う。この時向うに掛っているタペストリに織り出してある女神《めがみ》の裸体像が風もないのに二三度ふわりふわりと動く。
忽然《こつぜん》舞台が廻る。見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然《しょうぜん》として立っている。面影《おもかげ》は青白く窶《やつ》れてはいるが、どことなく品格のよい気高《けだか》い婦人である。やがて錠《じょう》のきしる音がしてぎいと扉が開《あ》くと内から一人の男が出て来て恭《うやうや》しく婦人の前に礼をする。
「逢う事を許されてか」と女が問う。
「否《いな》」と気の毒そうに男が答える。「逢わせまつらんと思えど、公けの掟《おきて》なればぜひなしと諦《あきら》めたまえ。私《わたくし》の情《なさけ》売るは安き間《ま》の事にてあれど」と急に口を緘《つぐ》みてあたりを見渡す。濠《ほり》の内からかいつぶり[#「かいつぶり」に傍点]がひょいと浮き上る。
女は頸《うなじ》に懸けたる金《きん》の鎖《くさり》を解いて男に与えて「ただ束《つか》の間《ま》を垣間《かいま》見んとの願なり。女
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