》い見る人こそ幸《さち》あれ。日毎夜毎に死なんと願え。やがては神の前に行くなる吾の何を恐るる……」
弟は世に憐れなる声にて「アーメン」と云う。折から遠くより吹く木枯《こがら》しの高き塔を撼《ゆる》がして一度《ひとた》びは壁も落つるばかりにゴーと鳴る。弟はひたと身を寄せて兄の肩に顔をすりつける。雪のごとく白い蒲団《ふとん》の一部がほかと膨《ふく》れ返《かえ》る。兄はまた読み初める。
「朝ならば夜の前に死ぬと思え。夜ならば翌日《あす》ありと頼むな。覚悟をこそ尊《とうと》べ。見苦しき死に様《ざま》ぞ恥の極みなる……」
弟また「アーメン」と云う。その声は顫《ふる》えている。兄は静かに書をふせて、かの小さき窓の方《かた》へ歩みよりて外《と》の面《も》を見ようとする。窓が高くて背《せ》が足りぬ。床几《しょうぎ》を持って来てその上につまだつ。百里をつつむ黒霧《こくむ》の奥にぼんやりと冬の日が写る。屠《ほふ》れる犬の生血《いきち》にて染め抜いたようである。兄は「今日《きょう》もまたこうして暮れるのか」と弟を顧《かえり》みる。弟はただ「寒い」と答える。「命さえ助けてくるるなら伯父様に王の位を進ぜるものを
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