いのだから。しかし少々頭がいたいからこれで御勘弁を願おう。四月九日夜。
[#ここで字下げ終わり]

        二

 また「ホトトギス」が届いたから出直して一度伺おう。我輩の下宿の体裁は前回申し述べたごとくすこぶる憐《あわ》れっぽい始末だが、そういう境界《きょうがい》に澄まし返って三十代の顔子然《がんしぜん》としていられるかと君方はきっと聞くに違いない。聞かなくっても聞く事にしないとこっちが不都合だからまず聞くと認める。ところで我輩が君らに答えるんだ、懸価《かけね》のないところを答えるんだから、そのつもりで聞かなくっては行けない。
 我輩も時には禅坊主みたような変哲学者のような悟りすました事も云って見るが、やはり大体のところが御存じのごとき俗物だからこんな窮屈な暮しをして回《かい》やその楽をあらためず賢なるかなと褒《ほ》められる権利は毛頭ないのだよ。そんならなぜもっと愉快な所へ移らないかと云うかも知れないが、そこに大に理由の存するあり焉さ。まず聞きたまえ。なるほど留学生の学資は御話しにならないくらい少ない。倫敦《ロンドン》ではなおなお少ない。少ないがこの留学費全体を投じて衣食住の方へ廻せば我輩といえども最少《もうすこ》しは楽な生活ができるのさ。それは国にいる時分の体面を保つ事は覚束《おぼつか》ないが(国にいれば高等官一等から五つ下へ勘定《かんじょう》すれば直ぐ僕の番へ巡《ま》わってくるのだからね。もっとも下から勘定すれば四つで来てしまうんだから日本でもあまり威張れないが)とにかくこれよりもさっぱりした家へ這入《はい》れる。然るにあらゆる節倹ををしてかようなわびしい住居《すまい》をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であると云う感じが強いのと、二つ目にはせっかく西洋へ来たものだから成る事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるからさ。そこで家を持って下婢《かひ》共を召し使った事は忘れて、ただ十年前大学の寄宿舎で雪駄《せった》のカカトのような「ビステキ」を食った昔しを考えてはそれよりも少しは結構? まず結構だと思っているのさ。人は「カムバーウェル」のような貧乏町にくすぼってると云って笑うかも知れないがそんな事に頓着《とんじゃく》する必要はない。かような陋巷《ろうこう》におったって引張りと近づきになった事もなし夜鷹《よたか》と
前へ 次へ
全22ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング