宿は東京で云えばまず深川だね。橋向うの場末さ。下宿料が安いからかかる不景気なところにしばらく――じゃない、つまり在英中は始終《しじゅう》蟄息《ちっそく》しているのだ。その代り下町へは滅多《めった》に出ない。一週に一二度出るばかりだ。出るとなると厄介だ。まず「ケニントン」と云う処まで十五分ばかり徒行《ある》いて、それから地下電気でもって「テームス」川の底を通って、それから汽車を乗換えて、いわゆる「ウエスト・エンド」辺に行くのだ。停車場まで着《つい》て十銭払って「リフト」へ乗った。連《つれ》が三四人ある。駅夫が入口をしめて「リフト」の縄《なわ》をウンと引くと「リフト」がグーッとさがる、それで地面の下へ抜け出すという趣向さ。せり上る時はセビロの仁木弾正《にっきだんじょう》だね。穴の中は電気灯であかるい。汽車は五分ごとに出る。今日はすいている、善按排《いいあんばい》だ。隣りのものも前のものも次の車のものも皆新聞か雑誌を出して読んでいる。これが一種の習慣なのである。吾輩は穴の中ではどうしても本などは読めない。第一空気が臭《くさ》い、汽車が揺れる、ただでも吐きそうだ。まことに不愉快極まる。停車場を四ばかりこすと「バンク」だ。ここで汽車を乗りかえて一の穴からまた他の穴へ移るのである。まるでもぐら持ちだね。穴の中を一町ばかり行くといわゆる two pence Tube さ。これは東「バンク」に始まって倫敦《ロンドン》をズット西へ横断している新しい地下電気だ。どこで乗ってもどこで下りても二文すなわち日本の十銭だからこう云う名がついている。乗った。ゴーと云って向うの穴を反対の方角に列車が出るのを相図に、こっちの列車もゴーと云って負けない気で進行し始めた。車掌が next station Post-office といってガチャリと車の戸を閉めた。とまるたびにつぎの停車場の名を報告するのがこの鉄道の特色なのである。向うの方に若い女と四十|恰好《かっこう》の女が差し向いに座を占めていた。吾輩の右に一間ばかり隔《へだた》って婆さんと娘がベチャベチャ話しをしている。向うの連中は雑誌を読みながら「ビスケット」か何かかじっている。平凡な乗合だ。少しも小説にならない。
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もう厭《いや》になったからこれで御免蒙《ごめんこうむ》る。実は僕の先生の話しをしたいのだがね。よほど奇人で面白
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