に捉《とら》えられて、そして、事件の発展なり、性格の活動なりを、其自分の目的の都合の可いように、作家の私で殊更《ことさら》ああ云う結果に持ち来《きた》らしたと言われては、仮令《たとえ》、其現わさんとした哲学なり、教訓なりを現わす目的を如何《いか》に能《よ》く達しても、作家としての私の面目は潰《つぶ》れる訳になる。
イブセンを能く引合いに出すようであるが、イブセンのものを読むと、彼れは一種の哲学に依って其作品を作り上げて居るけれ共、然し、其作品を読んで、作家が一種の哲学に捉《とら》えられて書いた作品であるとは思われない。描き出されて居る人間が動いて居て、シチュエーションが自然に、殊更筆を曲げたような痕跡《こんせき》なく、あそこまで煎《せん》じ詰められて来て居るのであるから、吾々《われわれ》はイブセンを読んで、彼れは一種の哲学を発表する為めに、殊更な非芸術な作品を作ったとは思わない。イブセンの作に曲ぐ可《べか》らざる生命のあるものは其故《そのせい》だろうと思う。所が、バーナード・ショウになると、私は余り多くは読んで居ないが、兎《と》に角《かく》自分の読んだだけの範囲で云うと、茲《ここ》に
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