一種の哲学なら哲学があって、それを現わす為めに、殊更な劇を組み立てたように思われる。即ち、其哲学に何処《どこ》までも囚《とら》われて居る。哲学に圧迫された劇である。だから其処《そこ》にイブセンとショウとの間に、大なる差違があるように思う。即ち同じく哲学を持ち乍《なが》ら、其哲学の為めに作り上げる作品が累《わずら》いされて、直ちにそれが読者の目に見え透《す》くか、或は自然に作り上げられた作品の中へ、其哲学が畳み込まれるかの別れる処は、ほんの僅《わず》かな一線で、其処《そこ》が呼吸ものだと思う。私の『虞美人草』などは問題にもなるまいが、兎《と》に角《かく》、其|極《ご》く幽《かす》かな一線の別れ方に依って、作品として失敗する人と、成功する人とに別れるのである。
 教訓的意味を芸術的作品に依って、得る必要はないと云うが、それは、教訓の為めに作品の価値を曲げては可《い》けないので、自然な作品の中から、自《おのずか》[#底本のルビは「おのず」]ら教訓が浮いて来るなら一向|差支《さしつか》えないと思われる。で、総《すべ》ての文芸上の作品は、或る意味に於いて、必ず一種の教訓を持ち来すものである、と私
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