関係の為めに作品を拵《こし》らえ上げたとか、或は私憤を洩《も》らす為めに書き上げたとか、総《す》べて目的の他にある所の作品は、私は作品として出来上ったとは言わない。作品として出来上ったと云う意味は、何物の支配命令も拘束も受けずに、作品其物を作り上げるを目的として作られた作品のことである。で、作品として出来上った所の其作品が、何かの教訓を読者に与えるなれば、敢《あえ》て作家の辞する所でない。一向|差支《さしつか》えないのである。だから読者が『虞美人草』を読んで、此の作は斯《こ》う云う教訓を書くために、それに合せるように殊更《ことさら》に作家が筆を曲げて書いたのだと云うことを感じるなれば、私は其作に殊更故意に書き上げた作為の痕跡《こんせき》が見える丈《だ》け、それ丈け多くの作品としては失敗したものであると言わねばならぬ。
けれ共、作品としては自然と出来上ったもので、故《わざ》とらしく教訓を狙《ねら》って書いたものではないが、自然と出来上った其作品の中に於《おい》て、余は如上の教訓を認め得たと云うなれば、私は作家として満足である。其作物に於て是非共現わさなければならぬと云う作家の一種の哲学
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