事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨《げんこつ》を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉《ろうぜき》である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲《な》ぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲《なぐ》ってやる」とぽかんぽかんと両人《ふたり》でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲《こ》りて以来つつしむがいい。いくら言葉|巧《たく》みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共《ふたりとも》だまっていた。ことによると口をきくのが退儀《たいぎ》なのかも知れない。
「おれは逃げも隠《かく》れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査《じゅんさ》なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴《うった》えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀《わたくしぎ》都合|有之《これあり》辞職の上東京へ帰り申候《もうしそろ》につき左様御承知被下度候《さようごしょうちくだされたくそろ》以上とかいて校長|宛《あて》にして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆《しゅっぱん》である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
 その夜おれと山嵐はこの不浄《ふじょう》な地を離《はな》れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ
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